2015年05月05日

桝形城(川崎市多摩区)

 川崎市青少年科学館のある生田緑地に枡形城があります。現在は公園になっていて、櫓を模した展望台が建てられています。
 桝形山の頂上が広場になっていて、ここが主郭だと思われるのですが、明瞭な遺構はありません。広場の周囲は急崖で、連なる尾根も細いので、自然地形を活かした要害だったのでしょう。
 小田原北条氏に視点を置くと、多摩川とその南岸に連なる丘陵を防衛線として、そこを守る城郭の一つとなります。シンプルな姿から戦国初期の城塞なのでしょう。

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2015年05月02日

水戸城(茨城県水戸市)

 水戸城を見学してきました。
 水戸徳川家といえば御三家の一つにして水戸黄門こと徳川光圀を輩出した名門です。
 幕末は尊王攘夷の先駆けとなり、突っ走った挙句に家中で内戦が起こって維新の頃にはボロボロになっていたというのがいかにも茨城県。

 水戸徳川家の前は鎌倉以来の名門、佐竹氏の居城でした。佐竹氏の前は江戸氏、馬場氏と遡りますが、北の那珂川と南の千波湖に挟まれた台地上の要害の地でした。
 石垣が築かれず、櫓も少なかったことから「簡素な城」と紹介されることが多いのですが、台地は高く、堀は深く、規模も壮大。三の丸から本丸の先端まで1km以上あり、ほぼ姫路城の中濠以内に相当する広さがあります。

 二の丸と三の丸の間に掛かる橋。三の丸は旧県庁に水戸警察署などの官公庁エリアになっています。旧藩校の弘道館も三の丸。二の丸は茨城大学付属小学校・県立水戸三高・市立水戸第二中が占める文教地区。天守代わりの御三階櫓(1945年の空襲で消失)も二の丸にありました。
 二の丸と三の丸の間は深い空堀で県道232号線に転用されています。

 本丸と二の丸の間に掛かる本城橋。本丸は県立水戸一高の敷地になっています。
 本丸と二の丸の間の空堀、こちらはJR水郡線に転用されています。鉄道工事の際にどの程度手を加えたのか分かりませんが、幅だけでも相当なもの。パッと見「お城」っぽく見えないので損をしている印象。

 本丸に残る薬医門。薬医門は門の名称というより建築物としての形式で、もとは本丸入口の橋詰御門だったと推定されています。市街地に移築されていたものを、再度、城内に移築。茨城県指定重要文化財。

 二の丸に立つ「大日本史編纂之地」石碑。徳川光圀の歴史的な功績は「大日本史」編纂に着手したことで、最終的に完成したのが1906年という260年に及んだ長期間プロジェクト。この脇に水戸城の資料館があり、発掘調査の出土品などが無料で公開されています。

 中学校の前を歩いていたら、薙刀を担いだ生徒が続々と下校してきて、かつての弘道館もかくあったかという光景でした。建物は失われましたが、文教地区になったことで、雰囲気が保たれた城跡だと思います。

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2015年04月26日

姫路城(兵庫県姫路市)

 2009年から6年間に渡って行われた「平成の大修理」が完了した姫路城を見てきました。
 今回の大修理は大天守の外装を全面的に改修したもので、屋根の葺き直しと外壁の漆喰の塗り直しが行われました。天守の保護と工事の足場を兼ねた覆屋が出来た後、2011年3月から2014年1月までは工事の様子を見学できるようになっていました。

・2011年8月 姫路城「天空の白鷺」(前編)(中編)(後編)
・2012年8月 姫路城「天空の白鷺」(2012夏)
・2013年11月 姫路城「天空の白鷺」(2013秋)

 2014年春には覆屋が撤去されて大天守の姿を見ることが出来るようになりましたが、足場の解体や資機材の撤去はその後も続き、大天守内部の公開が再開されたのは2015年3月。
 というわけで、久々に足を運びました。

 天守群遠望。大天守の屋根瓦をおさえる漆喰が塗り直されたため、屋根全体が白っぽく見えます。今回の修理の対象外だった小天守と比べると差は歴然。「驚きの白さ」「白すぎ城」とも言われているようですが、そのうち黒ずんでくるはずです。ちなみに黒ずみの主原因はカビで、漆喰には防カビ剤が混ぜてあるそうですが、これも2〜3年程度の効果。

 菱の門より内側の有料エリアのチケットと別に、繁忙期には天守へ登るための整理券が配られています。整理券そのものは無料で、一日15,000人限定。これは天守の入り口で回収されます。
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2015年03月28日

兵庫城発掘調査現地説明会(2015年3月28日)

 中央市場跡地の開発事業に伴って行われている兵庫城の発掘調査(遺跡名は兵庫津遺跡)。
 敷地のほぼ全面に渡って調査が進み、2015年1月にはこれまでの内堀と外堀が見つかったところまでの現地説明会が行われました。
 調査期間が2015年3月末ということで、これで埋め戻して終わりかな、と思っていたのですが、まだ出てきたのです。なんと天守台が。
・「織田信長の西国進出拠点“発見” 神戸の兵庫津遺跡」(2015.3.27神戸新聞)

 27日に記者発表、28日に現地説明会とはなんとも急な話です。とはいえ、これは見に行くしかありません。
 地下鉄海岸線の中央市場駅に現地説明会の案内掲示が出ています。
 発掘現場に着くと、前回公開されていた外堀のうち、南側の部分はすでに埋め戻されていました。今回、天守台とされる石垣が見つかったのは本丸の北東隅。続きを読む
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2015年01月31日

兵庫城発掘調査現地説明会(2015年1月)

 神戸市兵庫区の中央市場跡地で、ショッピングセンターの建設にともない、兵庫津遺跡の発掘調査が行われています。
 これまで2012年の調査で兵庫城の石垣が確認されていましたが、その後の調査で内堀と外堀の二重の堀が確認され、2015年1月31日に現地説明会が行われました。

 兵庫城は1580(天正8)年に織田信長の家臣、池田恒興(現在の姫路城を築いた池田輝政の父)によって築かれます。室町時代を通じて日明貿易の重要港だった兵庫津を抑える拠点です。約140m四方の平城で、さほど大きな城郭ではありません。
 池田恒興の後は豊臣秀次、片桐且元が城主となり、江戸時代前期は尼崎藩の兵庫陣屋、後期は幕府の直轄領となって番所が置かれます。明治に入って最初の県庁が置かれたのもこの地です。
 のち城域の北東側半分が新川運河の敷地となり、残る部分も中央市場となって、消滅します。兵庫城は今回の一連の発掘調査で久方ぶりにその姿を現したのでした。

 冒頭の写真は城の南側からの展望。トレンチを掘っての調査でなく、ほぼ全面に渡っての発掘調査。石垣のラインを追うと縄張りがたどれる状態になっています。

 遺構の保存状態が良い南側の外堀。最大幅は約18.5m。残っている石垣の高さは1m〜1.5mほどで、これより上の部分は後世に削られてしまったので、元の高さは不明。

 左写真は外堀の本丸側の石垣。加工していない石を積み上げた野面積みと呼ばれる積み方。
 右写真は外堀の城下側の石垣。石垣が二列に検出されていて、青テープが張られているのが築城当初からの石垣、左側に張り出している部分が後に堀を埋めて幅を狭くした時の石垣とのこと。

 戦国時代の石垣によく見られるのが転用石。供養塔やお地蔵さんを容赦なく石垣に使っています。
 左写真は元お地蔵さん。右写真は元五輪塔。
 姫路城の本丸石垣にも石臼を転用したものがあり、わざわざ金網で囲って保護していますが、兵庫城の石垣はこれ以外にも十や二十の単位で転用石を見かけます。続きを読む
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2014年08月02日

蛙が鼻築堤跡(岡山市北区)

 羽柴秀吉の高松城水攻めの堤防遺構が、蛙が鼻築堤跡です。
 現在残っているのは、幅10m・高さ4m・長さ20mほど。堤防が山に接続するところで、元の堤防のほんのごく一部。

 周囲はかつての堤防の幅にそって公園化されています。発掘調査で明らかになった堤防の基底は22〜24m。現在、地上に残る遺構のほぼ倍の幅があったことになります。

 発掘調査時のトレンチの一つが保存展示されています。堤防の端の杭や、積み上げた俵の跡(復元)が公開されています。
 これは良い展示。続きを読む
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備中高松城(岡山市北区)

 羽柴秀吉の水攻めで名高い備中高松城を訪問。
 政令指定都市となった岡山市の北区にありますが、かつては備中と備前の国境地帯でした。あいにくの雨天でしたが、この城に限っては往時を偲べる雨の日に足を運べたことを幸運とすべきでしょう。

 備中高松城は小さな盆地の水田の真中にあります。
 水田はかつては沼地で、敵の接近を許さない難攻の城でした。微高地にあるとはいえ、現状で本丸の比高が水田から2m弱、それ以外の郭は1m弱。かつて周囲が沼地だった時はもう少し標高差があったと思いますが、それでも真っ平らな城であることに変わりありません。

 本丸跡と二の丸・三の丸の西側は高松城址公園として整備されています。水田を掘り返した堀跡の池に蓮が植えられたきれいな公園ですが、城址としてより公園としての整備を優先した印象。
 本丸は城跡らしい雰囲気ですが、明瞭な土塁などはなく土地の高さでそれと知れる程度。それ以外の郭は遺構の雰囲気もほとんど感じません。
 空中写真では堀跡のような水田の区画が分かるのですが、現地では標高差がほとんど無いため、これもそれらしい雰囲気はなし。ここまで真っ平らな城も珍しいです。

 水攻めは黒田官兵衛の献策と言われていますが、なるほどこの地形なら堤防さえ築けば高松城は水に沈みます。おそらく本丸を含めた城内全域が床上床下浸水状態だったでしょう。
 城兵の居住スペースも事欠いたでしょうから、堤防完成から半月ほどで開城に追い込まれたのもやむなしだったと思います。続きを読む
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2013年11月17日

姫路城「天空の白鷺」(2013秋)

 姫路城天守の修理見学施設「天空の白鷺」へ行きました。
 3年連続3回目で、前に行った時の記事が以下にあります。
・2011年8月 姫路城「天空の白鷺」(前編)(中編)(後編)
・2012年8月 姫路城「天空の白鷺」(2012夏)

 天守本体の修復工事も大詰め。屋根の工事は2012年中に終了、壁の工事も一般公開されている部分は終了。現在は一層の仕上げが行われているそうです。

 今回が最後のつもりで行ったのですが、同じ思いの人が多いのでしょうか。お昼すぎに到着したらなんと2時間待ち。本来予約制の施設ですが、当日券の入場も可能で、今まで待ったことなどなかったので、全く油断していました。さすがに2時間待ちはしんどいので、先に兵庫県立歴史館に寄って出直します。

 2時間ほど経過して、列が1時間待ちになったところで入城。実際は30分ほどの待ち時間でエレベータに乗れました。
 展示施設の8階から見える5層の屋根。2012年夏の段階では仕上げの漆喰を塗っている最中でしたが、現在は工事も終了し、足場も撤去され、真新しい姿を間近に見ることができます。続きを読む
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2013年08月31日

二本松城(福島県二本松市)

 二本松市は福島県中通りの北部、福島市と郡山市の中間にあります。
 市街地の北側に二本松城があります。山上の本丸と山麓の居館からなる平山城で、戦国時代は山上の本丸を使用し、織豊・江戸期に石垣造りに改築され、以降は山麓の居館(三の丸)が主に使われました。

 二本松には室町幕府の管領も勤めた畠山氏の一族(二本松氏)が入りましたが、早くに勢力を喪失。戦国末期には伊達・葦名・佐竹の狭間に生きる一豪族になっていました。のち伊達政宗の攻撃を受けて降伏しますが、この時の当主・二本松義継は伊達政宗の父・輝宗を拉致。政宗は父もろとも二本松義継を撃ち倒します。
 1986年の大河ドラマ『独眼竜政宗』で、為す術ない渡辺謙の伊達政宗に、北大路欣也の輝宗が「政宗、わしを討て!」と叫ぶ名場面。
 のち二本松城は怒り狂った伊達政宗の攻撃を受け、寡兵でよく耐えますが、9ヶ月後に落城、二本松氏も滅亡します。

 伊達政宗が仙台に移った後、江戸時代に入って丹羽氏10万国の居城となります。丹羽氏は織田信長の重臣だった丹羽長秀の後裔。
 戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に帰属し、丹羽家の主力は白河口に出兵していました。白河小峰城をめぐって1868年4月から7月まで3ヶ月間の攻防が続き、その間に兵力を充実させた新政府軍は、7月29日に空き城同然の二本松城を攻撃します。
 留守部隊だけの二本松、最後は城に火をかけ家老全員が切腹するという、戦国時代のような壮絶な落城。
 歴史に残る落城を二度も経たことになります。続きを読む
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白河小峰城(福島県白河市)

 源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした後、白河は結城氏の所領となりました。
 白河に移った結城氏の一族が室町時代になって居城としたのが白河小峰城です。
 白河結城氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため改易され、江戸時代の白河は親藩・譜代大名が次々と赴任しました。寛政の改革を行った松平定信も白河城主から幕府の老中に就任しています。
 幕末は幕府領(二本松藩預り)になって城主不在でしたが、戊辰戦争の際に奥州の玄関口を扼する要所として奥羽越列藩同盟軍が占拠しました。

 1868年5月1日に新政府軍が攻めかかり、わずか1日で落城。この時、城内の建築物をほとんど焼失しています。その後、奥羽越列藩同盟軍が奪還を図って断続的な攻防戦が続きますが、その都度撃退され、7月14日をもって撤退。白河を新政府軍が抑えたことで事実上、会津戦争の帰趨が決まりました。

 現在の小峰城は、復元された三階櫓が本丸に建っています。ただ東日本大震災で本丸石垣が崩壊したため、2013年現在は本丸への立ち入りが禁止されています。柵越しに崩壊した石垣や、土嚢やビニルシートが見えるのですが、想像以上の被害です。これは復旧まで相当の時間がかかりそうです。

 小峰城内には1887年に白河で見られた皆既日食の記念碑があり、これはぜひ見ておこうと思ったのですが、お城の惨状に驚いて、探すのを諦めてしまいました。あとから確認したら立ち入り禁止エリアの外にあったのですが……またいずれ、復旧なった小峰城とともに訪ねたいと思います。
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