2016年09月10日

唐沢山城(栃木県佐野市)

 「唐沢山城ですか、そんなに遠くないですよ。車で上まで上がれます」という話を犬伏の薬師堂のボランティアの方にお聞きして、ならばと行ってみました。相変わらずの行き当たりばったりです。
 唐沢山城は関東屈指の山城で、標高274mの唐沢山の頂上付近を要塞化したもの。藤原秀郷による築城の伝説がありますが、15世紀後半より遡る遺構は確認されていないとのこと。

 下野国南部の要衝で後北条氏と上杉氏の境目に位置したため、たびたび両者の合戦の舞台となりました。上杉謙信には10度も攻められ、その都度守りぬいたり降伏したりしているのですが、「あの謙信」をさんざん手こずらせたことで名城として名を挙げます。

 関東には珍しい石垣を多用した縄張りで、これは豊臣政権期に整備されたものとされているようです。城の東半分は昔ながらの土塁と空堀が残り、中世と近世が混在したような城郭です。

 唐沢山城は江戸時代に廃城となり、城主は山麓に気付かれた佐野城に移ります。江戸市街を遠望できるゆえに廃城を迫られたという伝承もありますが、破却されたわけではないので、日常の便を優先しての移転だったのでしょう。
 今でも城内の展望台からは、天気が良ければスカイツリーや新宿新都心の高層ビル群が見えるそうです。この日はちょっと霞がかかっていましたが、眺望の良さが伺える眺めでした。

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2015年12月03日

津城(三重県津市)

 「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ」と唄われた藤堂氏32万石の居城。津はもともと「安濃津」と呼ばれる港がありました。「津」の字は港を表す文字ですが、それが固有名詞として通用するほどの存在感でした。しかし中世の津波で壊滅。江戸時代は伊勢街道の宿場町でした。

 初代の藤堂高虎は築城の名手として名高く、自らの居城だった宇和島城、今治城、津城、津藩支城の伊賀上野城、対豊臣家の天下普請で築かれた丹波篠山城、近江膳所城と多くの城の縄張り(設計)を担当しています。

 内堀と外堀で回字状に設けられた本丸と二の丸からなり、本丸の東西には東の丸・西の丸という名の角馬出が付きます。本丸を囲む内堀は幅広く、また城下町全体も南北両側を川に挟まれて、平城ながら防御力の高い占地。

 現在残っている津城は本丸と西の丸の部分のみ。外堀は消滅、内堀は北側と西側を残して埋め立てられ、幅も狭くなっています。本丸と西の丸の間の堀も埋められて、両者が一体化した状態で公園化しています。

 城の面影を一番良く残すのは本丸北面。東西に三層櫓を載せた石垣は津城一番の見せ場だったでしょう。

 石垣の事例として紹介されることの多い犬走り。石垣のたもとに人が通れる通路を設けたもの。水面ギリギリで、水位が上がると水没してしまいそうです。西の丸のもの。

 左写真は本丸南側の天守台。五層の天守があったとも言われていますが、関ヶ原の戦いの際に西軍に攻められ、焼失。以後は再建されなかったとも、一時は三層の天守が構えられたとの説がありますが、いずれにせよ藤堂時代以降は天守のない城となりました。
 右写真は天守台のすぐ東にある埋門。現在は公園に降りるようになっていますが、当時は水堀直結でした。枡形がなく、敵から丸見えなので、どういう用途を想定したのやら。

 模擬建造物の三層櫓。すぐ側にもともと三層櫓があった櫓台があるのに、接続する多聞櫓の場所に建てたのが謎。このため三層櫓にしては極端に小さい作りになっています。

 左写真は南面の堀。よく見ると中間部分の積み方が違うのが分かります。本丸と西の丸の間を埋めて、庭園にしているのです。もし将来、再整備されることがあったら復旧して欲しいところ。
 右写真は本丸南面の石垣。不整合な積み方になっています。右側部分をいつの時代かに増築したのでしょう。

 本丸四囲の石垣は残っていますが、平城なのに堀が埋められてしまったため、道路から低い石垣が立ち上がっているように見えてしまうのも惜しいところ。
 それでもギリギリの線で本丸を都市化の波から守り切ったというところでしょうか。

 津城は池波正太郎の時代小説『雲霧仁左衛門』に縁のあるお城でもあります。池波正太郎の小説の中では一番好きな作品です。
# 『真田太平記』も好きなので甲乙つけがたい。

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2015年11月14日

江戸城外堀跡の石垣

 夜行バスが早く着いたので、東京駅の周りをブラブラ散歩。
 八重洲北口と中央口の間にあるロータリー脇の植え込みが一ヶ所だけ古びた雰囲気の石垣なのが気になりました。なんで打ち込みハギの石垣なんだ?
 近付いてみると案内板があり、江戸城外堀の石垣とのこと。発掘調査で出てきたものだそうです。
 そういえばこれ、NHK「ブラタモリ」で取り上げていたかも。

 遠目には気にならなかったのですが、近くで見ると石垣が変です。なんか奥行き感がない。
 覗きこんだら、石垣の表面だけ再現した「はりぼて」でした。説明板をよく読むと、石垣の出土地点もここではなく、八重洲南口のバスターミナルのさらに南の辺り。
 ただこの植え込みの場所も外堀の縁ですし、はりぼてにしても城郭ファンの私が遠目に分からないほどに雰囲気を再現しています。遺構を活かした粋な配慮というべきでしょう。
# 石垣の裏込め石まで再現したら費用もかかるし、植物を植えるスペースが無くなるのだと思います。

 朝から面白いものを見ました。
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2015年11月08日

和歌山城(和歌山県和歌山市)

 徳川御三家、紀州徳川家の和歌山城です。
 羽柴秀吉が紀州を平定した際に弟の羽柴秀長に築城させたのが元ですが、江戸時代は紀州徳川家の居城となりました。戦乱が落ち着いてから出来た城郭なので実戦は経験していません。

 和歌山城天守は太平洋戦争の空襲で焼けて戦後に再建されました。三層三階の大天守と二層二階の小天守が並び、多門櫓で2基の二層櫓を連結して天守曲輪を構成しています。「連立式天守」と呼ばれるもので、姫路城と同じ形式。
 姫路城の五層の大天守と比べると小さいように見えますが、実は和歌山城の天守は五層天守を建てられる広さの石垣の上にドテッと三層天守を建てたので、建物全体がデカイのです。近くで見ると遠近感がおかしくなったかと思うくらい。意匠全体は徳川系の雰囲気がにじみ出ています。

 和歌山城の丘の頂上は2つの峰になっていて、一方が天守曲輪、もう一方に本丸御殿が建てられていました。本丸御殿の跡地は現在は水道局の給水場になっています。市街地の真ん中の高台なので給水場の場所としてはこの上ない立地ですが、しかし殿様の住処から運ばれた水を飲んでるのか和歌山市民は。なんか贅沢な気がします。

 和歌山城で面白いのは石垣。城の中心部の天守曲輪をはじめとする丘陵部一帯は、自然石に近い石を積み上げた「野面積み」と呼ばれる技法。
 石垣の角は崩れやすい場所なので、直方体に近い石を選んで丁寧に積んでいます。
 石材は緑泥片岩と呼ばれる岩石で、庭石にもよく使われるもの。産地が限られているので他の城ではあまり見ません。

 この写真では右側が野面積み、左側が「打ち込みハギ」と呼ばれる技法です。比べてみると一目瞭然。
 昔からある野面積みの石垣に後から打ち込みハギの石垣を継ぎ足した場所で、年代的にも打ち込みハギの方が新しい技法です。ここでは低い石垣ですが、より高くより急勾配の石垣を組めるので、近世城郭の石垣に多用されています。

 もう一つが「切り込みハギ」。石材をきっちり加工して大きな石をピッタリ隙間なく積み上げています。
 加工の手間がかかるので、和歌山城では門の周辺など「見栄え重視」の場所に採用されています。

 これだけ分かりやすいサンプルが並んでいる石垣はなかなか楽しいです。

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2015年10月25日

茨木城(大阪府茨木市)

 茨木城は茨木市街の中心部にありました。大坂夏の陣後に廃城となり、平城で跡地が市街化したため、目に見える縄張りの遺構はありません。
 現在の茨木市立茨木小学校の付近が本丸跡で、大和郡山市の慈光院に移築された旧城門を復元した櫓門があります。城郭の櫓門にしては二階部分が小さい気もするのですが、古い時代だとこんなものかも。

 もう一つ、近くの茨木神社に搦手門の高麗門が移築されています。こちらも見学したのですが、城門の移築とは知らずに遠目に見ただけで写真を撮っていませんでした。神社の門にしては変わってるなとは思ったのですが……

 茨木城主で知られているのは中川清秀と片桐且元。
 中川清秀は高山右近のいとこで、荒木村重の反乱に与しますが早々に織田方に降伏します。大河ドラマ「軍師官兵衛」では村重に謀反をそそのかしながら自分はさっさと降参してしまう非道い人に描かれていましたが、どうなんでしょう。本能寺の変後は秀吉の傘下に入りますが、賤ヶ岳の合戦で柴田方の佐久間盛政の猛攻を受けて奮戦するも討ち死に。子孫は豊後岡藩で明治維新まで家を保ちます。

 片桐且元は「賤ヶ岳七本槍」の一人で豊臣秀頼の側近でした。徳川方とのつなぎ役となりますが、豊臣方から家康への内通を疑われて大坂城を辞去。
 のち一国一城令によって、摂津国は高槻城を残し(大坂城は別格)茨木城は廃城となりました。

 「茨木」は「いばらき」と読みます。茨城県の「茨城」も「いばらき」で読み方は同じ。「いばら」の方が茨城県というのは俗説です。になるのはなまってるだけですから。かくいう茨城県出身の私も「いばら」だと思ってましたから。
 ちなみにこちらで出身地を聞かれた時は「関東の茨城」と言うようにしています。「いばらきです」と言うと「大阪ですか?」と問い返されることが度々ありました。

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2015年10月17日

有岡城惣構(兵庫県伊丹市)

 有岡城は戦国時代に伊丹にあった城郭です。荒木村重の居城で、彼が信長に反旗を翻して鎮圧した後に廃城となりました。
 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で、村重の説得に赴いた黒田官兵衛が幽閉された様子が描かれていました。

 有岡城の主郭部はJR伊丹駅周辺で、伊丹駅そのものが主郭部の東半分を切り崩してつくられました。西半分は比較的よく残っていて、空堀や土塁、石垣の一部が公園として整備されています。

 有岡城の特徴は城下町をまるごと囲む「惣構」が巡らされていたこと。
 城下町をまるごと土塁・石塁や堀で囲んで防御する惣構えは近世城郭の多くに設けられましたが、有岡城はその最も古い遺構といわれています。惣構の要所には砦が設けられ、現在も「岸の砦」「上臈塚砦」「鵯塚砦」の名前が残っています。

 北端の「岸の砦」は猪名野神社境内に比定されています。境内の周囲は土塁に囲われていて、駅前の主郭部とともに国指定史跡になっています。

 西側の「上臈塚砦」。墨染寺付近に比定されています。西側の惣構ラインのほぼ中央です。
 墨染寺の境内の墓地には「女郎塚」があり、これは有岡落城後に信長によって処刑された城中の婦女を供養したものと言われています。

 南側の「鵯塚砦」は古墳を転用したものと言われていますが、現在は明瞭な遺構はありません。今回は訪問せず。

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2015年08月25日

水戸城(茨城県水戸市)

 水戸城三の丸の空堀。水戸城は基本的に土づくりの城でした。
 石垣を多用した城郭に比べると旧式の印象を受けるかもしれませんが、ひたすら平原の続く関東平野は石材の調達が難しく、戦国期から江戸時代初期の城郭のほとんどが土づくりです。
 石垣のほうが急斜面を作れるのですが、火砲に対しては着弾の衝撃を吸収できる土塁のほうが優れている面もあり、幕末に築かれた函館五稜郭は大部分が土塁で出来ています。
# 江戸城の石垣の石材は伊豆半島から船で運んでいますが、あれは天下を取った徳川家だからできたこと。

 ちょうど草刈り作業の人が写り込んでいますが、人と比べると規模の大きさがわかります。水戸城の基本構成は戦国末期の佐竹氏の時代に築かれたもので、水戸徳川家は大きな手を入れることなく使っています。
 簡素と言われる水戸城ですが、それは建造物に限っての話で、城郭としては大規模なものでした。
 とはいえ対豊臣家の前線基地として天下普請で築かれた名古屋城と比べると、地味な印象はあります。



 二の丸大手門跡では発掘調査が行われていました。
大手門は復元整備計画もあり、もしかしてその準備の調査か、とドキドキしながら覗いたのですが、共同溝の工事に伴うものとのこと。
 三の丸の弘道館から二の丸にかけては比較的かつての景観が残っている場所で、城郭ファンとしても建物の復元整備は望ましいことと思います。

 三の丸の弘道館前に建つ「徳川慶喜尚学の地」石碑と、二の丸に建つ「大日本史編纂之地」石碑。
 江戸の「江戸っ子」に相当する言葉として、水戸の「水戸っぽ」があります。俗に「理屈っぽい」「怒りっぽい」「骨っぽい」と言われますが、幕末に尊皇攘夷の理屈をこね回した挙句に桜田門外の変や天狗党の乱を引き起こすあたり、なんとなく納得してしまいます。
 その「理屈っぽい」一端がこれかも。

 そりゃ水戸徳川家の代表的人物といえば、徳川光圀に徳川斉昭に徳川慶喜ですから。

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2015年08月24日

磐城平城(福島県いわき市)

 いわき市の中心街、かつての平市街を見下ろす丘の上に磐城平城があります。
 関ヶ原の戦いの後に徳川普代の鳥居忠政によって築城。1603年に着工し、1615年の完成ですから、姫路城の改修とほぼ同年代です。

 城跡の殆どは宅地となりましたが、一部に石垣や堀が現存しています。
 上の写真は本丸跡。一部が広場になっているのですが、普段は閉鎖されていてイベントの時などだけ開放されるようです。近くに低い石垣がありましたが、積み方が粗く、たぶん後で組んだものではないかと思います。

 本丸から繋がるようにある丹後沢公園。公園の入口に崩落した石垣があります。手前の青いのは土砂どめの土嚢。こちらの石垣は裏込め石もしっかり入っていて、おそらく磐城平城由来のものです。縄張り図と比較すると本丸と大手郭を仕切る中門の辺り。
 崩落は東日本大震災か、その年の4月末の大きな余震によるものかもしれません。

 右写真は公園の名の由来になった丹後沢。磐城平城の中核部を囲む堀で、箱崎丹後という人が人柱になったという伝承からこの名があります。

 磐城平城は仙台の伊達家を抑える目的の城で、江戸時代を通じて譜代大名が配置されました。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の最前線の基地となり、同盟の中核となった伊達藩の盾となって落城したのは歴史の皮肉かもしれません。

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2015年05月05日

桝形城(川崎市多摩区)

 川崎市青少年科学館のある生田緑地に枡形城があります。現在は公園になっていて、櫓を模した展望台が建てられています。
 桝形山の頂上が広場になっていて、ここが主郭だと思われるのですが、明瞭な遺構はありません。広場の周囲は急崖で、連なる尾根も細いので、自然地形を活かした要害だったのでしょう。
 小田原北条氏に視点を置くと、多摩川とその南岸に連なる丘陵を防衛線として、そこを守る城郭の一つとなります。シンプルな姿から戦国初期の城塞なのでしょう。

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2015年05月02日

水戸城(茨城県水戸市)

 水戸城を見学してきました。
 水戸徳川家といえば御三家の一つにして水戸黄門こと徳川光圀を輩出した名門です。
 幕末は尊王攘夷の先駆けとなり、突っ走った挙句に家中で内戦が起こって維新の頃にはボロボロになっていたというのがいかにも茨城県。

 水戸徳川家の前は鎌倉以来の名門、佐竹氏の居城でした。佐竹氏の前は江戸氏、馬場氏と遡りますが、北の那珂川と南の千波湖に挟まれた台地上の要害の地でした。
 石垣が築かれず、櫓も少なかったことから「簡素な城」と紹介されることが多いのですが、台地は高く、堀は深く、規模も壮大。三の丸から本丸の先端まで1km以上あり、ほぼ姫路城の中濠以内に相当する広さがあります。

 二の丸と三の丸の間に掛かる橋。三の丸は旧県庁に水戸警察署などの官公庁エリアになっています。旧藩校の弘道館も三の丸。二の丸は茨城大学付属小学校・県立水戸三高・市立水戸第二中が占める文教地区。天守代わりの御三階櫓(1945年の空襲で消失)も二の丸にありました。
 二の丸と三の丸の間は深い空堀で県道232号線に転用されています。

 本丸と二の丸の間に掛かる本城橋。本丸は県立水戸一高の敷地になっています。
 本丸と二の丸の間の空堀、こちらはJR水郡線に転用されています。鉄道工事の際にどの程度手を加えたのか分かりませんが、幅だけでも相当なもの。パッと見「お城」っぽく見えないので損をしている印象。

 本丸に残る薬医門。薬医門は門の名称というより建築物としての形式で、もとは本丸入口の橋詰御門だったと推定されています。市街地に移築されていたものを、再度、城内に移築。茨城県指定重要文化財。

 二の丸に立つ「大日本史編纂之地」石碑。徳川光圀の歴史的な功績は「大日本史」編纂に着手したことで、最終的に完成したのが1906年という260年に及んだ長期間プロジェクト。この脇に水戸城の資料館があり、発掘調査の出土品などが無料で公開されています。

 中学校の前を歩いていたら、薙刀を担いだ生徒が続々と下校してきて、かつての弘道館もかくあったかという光景でした。建物は失われましたが、文教地区になったことで、雰囲気が保たれた城跡だと思います。

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