2017年12月10日

宇土城(熊本県宇土市)

 豊臣秀吉の九州平定後、肥後国(熊本県)は、北半分が加藤清正、南半分が小西行長の領地となりました。
 宇土城は小西行長が拠点として整備した城郭で、近くの丘陵にある戦国時代までの宇土城(宇土古城・中世宇土城)と区別するため、近世宇土城とも呼ばれています。

 小西行長は関が原の戦いで石田方に付き、宇土城は徳川方の加藤清正の攻撃を受けて落城。
 加藤清正は小西領を含めた肥後一国を治めることとなり、宇土城は清正の隠居城として大改築されました。現在残る遺構は加藤時代のもので、小西時代の宇土城はその下に埋もれているそうです。

 本丸跡は公園になっていて、広場の一角に小西行長の像があります。大坂城が太閤秀吉の城であるように、宇土城は小西行長の城なのです。

 本丸跡は高台になっていて、周囲に石垣の一部が残ります。実は宇土城、加藤清正の死後に幕府の命で破却され、さらに島原の乱の後に徹底的に破却されます。最初の破却は外様大名の勢力削減の一環だったと思うのですが、二度目のそれは島原の乱の戦訓から。島原の乱では一揆勢が廃城となっていた原城に立てこもり、3ヶ月も籠城を続けました。
 城の破却は実は形式的な意味合いが強く、主要部(縄文や石垣の角)のみ壊して後はそのままということが多いのですが、宇土城はもともと小西領でキリシタンが多く、万が一反乱の拠点に使われてはかなわぬということで徹底破壊されたのです。

 現存石垣はいずれも下部のみで、高台の上部まで続く高石垣はありません。本丸周囲の堀も埋められたようで、微地形に痕跡が残るのみです。
 二の丸は墓地となり、本丸とのあいだの道路が堀の跡。たしかに道路は一段低いのですが、知らぬ人がここだけ見たら城跡とは思わず通り過ぎてしまいそうです。

 外郭の三の丸と堀の跡。高台が三の丸で水田が堀の跡です。こうした痕跡が見つかると楽しいです。

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熊本城(熊本県熊本市)

 2016年4月14日・16日に発生した熊本地震で大きな被害を受けた熊本城。現在もまだ、長い復興の途上にあります。



 被害状況は報道で知っていたつもりですが、改めて目のあたりにすると言葉を失います。

 崩落した石垣の石材を整理してナンバリング。積み直すまで何年かかるのか想像もできません(20年位と言ってたかな)。文化財の修復はほんと大変。

 熊本城の本丸一帯と西出丸は立ち入りが制限されていますが、その周囲は仮の見学ルートが整えられています。
 こちらは本丸の西側にある西出丸。熊本城は東から南を川に守られていて、北は丘陵の急斜面、尾根続きの西が防衛上の弱点ですが、加藤清正がこれを補うために築いた曲輪です。並の城が一つ分もある大きな出丸で、清正は「ここだけで百日は持ちこたえる」と言ったそう。かつてはもっと堀が深かったのですが、以前の水害の土砂の処分で堀を埋めてしまったそうです。それでもこの壮大さ。

 復旧工事中の大小天守と大きな被害を免れた宇土櫓。
 大小天守は西南戦争に先立って消失し、現在の建物は戦後の再建。宇土櫓は築城以来の建物で国指定重要文化財。宇土櫓は宇土城から移築されたとも言われていますが、昭和の解体修理では使用した材に再利用の痕跡はなかったそうです。
 最初に宇土櫓が視界に入ったとき、「あれ? 天守、大丈夫やん」と思ったのですが、大小天守はずっと奥に控えていたのでした。他の城なら充分に天守が務まるほど、宇土櫓は大きな櫓です。

 姫路城・熊本城・名古屋城が日本三名城と呼ばれます(江戸城と大阪城は別格なのでしょう)。
 現存している建造物が多いのは姫路城で、これまた素晴らしい城郭ですが、実戦で強力なのはなんといっても熊本城でしょう。姫路城は縄張りの設計が少し古風で、名古屋城は兵站基地的な意図の強い縄張りです。何といっても西南戦争で西郷隆盛率いる薩摩軍(近代火器を装備)を寄せ付けなかった実績があります。
 西郷さんは「官軍に負けたんじゃなか、清正公に負けたんじゃ」と言ったとか。

 いつの日か、再建なった熊本城をまた見に行きたいと思います。

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2017年11月12日

魚津城(富山県魚津市)

 魚津城跡。 現在は小学校の敷地となり、遺構らしい遺構はありません。
 戦国時代末期は上杉氏の持ち城でしたが、柴田勝家率いる織田方の攻撃が1582年3月から断続的に続きます。上杉景勝も援軍を率いて救援に向かい5月15日に城外に到達しますが、本拠の春日山城を信濃の織田勢が窺う勢いとなり、5月26日に撤退。そして6月3日、落城を悟った上杉方の守将12人が自刃して終局を迎えます。

 ところがこれが本能寺の変の翌日。直後に信長死すの報を受けた柴田勢は、落とした魚津城を放棄して撤退。
 城は再度、上杉の手に戻るのでした。

 その後なんやかんやあって、上杉は越中から手を引き、さらになんやかんやあって、加賀前田氏の領地となります。
 魚津城は廃城となりますが、江戸期を通じて堀は維持され、いざという時に機能を発揮する状態だったと言われています。

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2017年11月11日

富山城(富山県富山市)

 富山城は室町時代前期に築かれ、神保氏→上杉氏→佐々成政→前田氏の城と移り変わりました。
 江戸初期に前田氏によって大改修が行われ、近世城郭として完成します。土塁と水堀主体の城で、石垣は主な虎口の周囲に築かれたのみでした。

 現在の富山城址公園はかつての本丸と二の丸を地続きとした範囲です。
 天守風の建造物は1954年に建設された富山市郷土博物館で、江戸期の富山城に天守はなかったとされています。旧来の石垣の上に建てられているためか、あまり違和感がありません。建造から半世紀を経て2004年に国の登録有形文化財になっています。
# この手の復興天守では大阪城天守も国の登録有形文化財です。

 郷土博物館の東(手前)に延びる石垣は江戸時代は土塁でした。また平成に入って城址公園の東側にも石垣が築かれましたが、こちらも門の周囲以外は本来は土塁。石垣を見たときになんか雰囲気違うとは思ったのですが、本来の石垣でも明治以降に修復が入ったりすると雰囲気が変わるので、見た目で判断するのはなかなか難しいです。

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2017年08月27日

モシリヤチャシ(北海道釧路市)

 釧路市内を回るのにレンタサイクルを借りるつもりでしたが、なんと第四日曜日(私が訪問した日)はお休み。
 仕方がないので歩いて回る範囲での行動となります。
# そうと知っていれば駅のコインロッカーに荷物を放り込んだのに、大荷物抱えて歩く羽目になりました。

 とはいえ、広い街なので、こども遊学館の他に唯一回れたのがモリシヤチャシでした。
 チャシはアイヌの施設で、柵や囲いのこと。一般的に城砦として使われたものが多いと考えられてきましたが、近年の研究の進展で大きさも用途も多様だったことが明らかになりつつあります。

 モシリヤシャチは釧路市街地の只中にあり、正副2つの曲輪と空堀、帯曲輪が良好に残っています。小さな丘ですが、盛土ではなく、東側の台地から連なる半島状の地形を利用したもの。「モリシヤ」は川の向こうという意味で、釧路川の東岸を広く指した地名だったようです。

 記録と伝承で、築城者と築城時期、そして城塞として使われたことが明らかな珍しいチャシ。
 チャシの丘は「御供山」と呼ばれていて、段々に削平された様子がお供え餅のようだというのがその語源。雪が積もった時期なら似てるかもしれません。
 中腹が不自然にボコボコしているのですが、戦時中に防空壕が掘られていたそうです。遺跡に戦跡が重なる場所。

 モシリヤチャシは金網で囲まれています。今回は釧路市埋文に連絡し、中に入れて頂いて見学しました(ありがとうございました)。 遺構の解説もして頂いて恐縮しきりです。
 本土の城郭では版築で土を突き固めることが多いのですが、このチャシは素掘りのまま。崩れやすい上に、釧路沖地震の被害で地割れが発生したこともあるほか、雪解けの時期は凍結した地面が溶けて地盤が緩くなるそうです。普段は網で囲っている事情も理解できました。
 よい遺構を見学できました。

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2017年05月05日

古河公方館(茨城県古河市)

 茨城県古河市にある古河公方館。

 室町時代、足利将軍家は京に館を構えましたが、鎌倉に分家を置いて関東の支配に当たらせました。
 分家を鎌倉公方といいますが、補佐役の関東管領と対立したり、鎌倉公方と足利将軍家が対立したり、もう最初から最後まですっちゃかめっちゃか。やがて鎌倉公方は古河に居を移して古河公方となります。
# 1455(享徳4)年のことで、この前後の「享徳の乱」が関東戦国の幕開けになります。応仁の乱よりちょっと早めですね。

 古河公方館は現在の古河市街の南東の郊外にあり、主郭と二郭を含めた一帯が古河総合公園となっています。
 遺構が良好に残っているのは主郭部で、二郭との境界の空堀と土塁が残っています。左の写真、通路が空堀の底で、左側に土塁があります。
 主郭は沼地に突き出た半島の突端で、要害ではあるのですが、関八州に君臨する古河公方の館としてはやや手狭な感もあります。

 実際もそうだったのか、古河公方がここに住んでいたのは2年ほどで、後に古河城を築いて移っていきます。古河公方館はその後も古河城と並行して存置されたようで、古河公方が喜連川藩(栃木県さくら市)に移る前の最後の当主はこの館に住んでいました。

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2017年02月15日

尼崎城天守「復元」

 尼崎市で尼崎城の天守を「復元」する計画が進んでいます。というか着工されています。

・「尼崎城の復元着工へ、完成図公表 18年8月完成」(神戸新聞 2016.12.19)
・「来夏完成予定の尼崎城 公園など整備本格化」(神戸新聞 2017.2.10)

 尼崎城は大阪湾に面して築かれた平城ですが、明治以降の開発で、石垣も築港に転用され、遺構はほぼ全て失われました。空中写真を見ると街の区割りがかつての濠や曲輪に沿っている様子が分かりますが、他の痕跡はほとんどありません。
 本丸跡は市立の小中学校と文化財収蔵庫が立ち並ぶ文教地区になり、天守は文化財収蔵庫のあたりにありました。写真中央やや下の小さな赤い四角の部分です。

 今回天守が「復元」されるのは、本来の天守があった場所ではありません。300mほど西側の尼崎城址公園。写真中央やや上の大きめの赤く塗った部分。かつての三の丸跡の一角です。
 城好きの視点から見ると、ちょっと複雑な気分。
# 写真は国土地理院2007年撮影の空中写真を加工しています。

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2016年12月11日

高松城(香川県高松市)

 四国の玄関口、香川県高松市の高松城。瀬戸内海に面した平城で海水を濠に引き入れて軍船の出入りを可能にしている海城でもあります。城主の高松松平家は徳川光圀の兄、松平頼重が藩祖で水戸藩と縁があります。

 現在は周囲を埋め立てられて、主要部の一部が玉藻公園になっています。写真は三の丸南東隅の艮櫓。南東の隅なのに艮(丑寅=北西)とは如何に、ですが、元々は太鼓櫓が建っていた櫓台に別の場所にあった艮櫓を移築したもの。

 奥の一段高い石垣が本丸の天守台。三重四階の四国最大の天守が建っていました。本丸はかつて島のように独立した曲輪でしたが、現在は西側の堀が埋められて地続きになっています。パワーショベルがいるのは南側の濠で、元々は水濠ですが何かの工事が行われているようです。

 大きく写っている櫓台は本丸の地久櫓跡。手前は以前は濠でしたが、現在は鉄道の路線敷となっています。

 現在の高松城は、城の西側と南側を琴電琴平線に囲まれていて、市街側から写真を撮ると必ず架線が写り込んでしまいます。というか電車も写り込んできます。

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2016年10月16日

高取城(奈良県高取町)

 高取城は奈良盆地の南端、吉野に向かって山を分け入った場所にあります。
 大和国が羽柴秀長(秀吉の弟)の領地だった頃に近世城郭として整備され、山上に豪快な石垣が築かれました。
 江戸時代に入った後は植村家が2万5千石の城として幕末を迎えます。

 キトラ古墳壁画見学の後、特に予定は組んでいなかったのですが、壺阪山駅を降りたときにここが高取城の城下であることを知りました。お城までは5kmほどとのことで、これは帰りがけに登っていこうと思い立った次第。相変わらずの行き当たりばったりです。

 5kmなら歩いて一時間ちょいかと思っていたのですが、山の上の城だということをすっかり忘れていました。
 いえ、山城なのを忘れるわけはないのですが、江戸時代を通じて山上の城郭が維持されていたので、登城路は整備されていると思っていたのです。実際は登城路というより、思いっきり登山道でした。

 「七廻り」とか「一升坂」とか登城路ではなく登山道の名前だよなと思いながら急坂を登ります。この上に石垣を組むなんてどうかしてます。
 麓の城下町から1時間。本格的な山道に入ってから30分。ようやくニの門跡に到着。ここから先が城内といってよいエリア。ニの門の脇には水濠があってびっくりします。谷をせき止めてため池状態にしたのでしょうが、ここまで登って水面を見るとは思いませんでした。

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2016年09月10日

足利氏館(栃木県足利市)

 足利氏館は室町幕府を開く足利氏の居館で、一辺200mほどの不等辺四角形を土塁と水濠で囲った方形館です。鎌倉期の武士の居館の面影を残すことから全域が国指定史跡となっています。

 現在は一帯が鑁阿寺(ばんなじ)という寺院になっています。本堂は1299(正安元)年の建立で国宝。
 本堂が建っているのは、もともと邸宅があったであろう居館の敷地の真ん真ん中。建立の時期は鎌倉時代後期なので、邸宅を撤去して寺院を作ったことになります。いったい足利氏はどこに住んでいたのかと思うのですが、北条氏に次ぐ家格の有力御家人でもあり、鎌倉在住の期間が長かったかもしれません。

 四囲の土塁と水濠はよく整備されています。往時の土塁はもっと高く、頂部に塀が設けられていたのだと思います。とはいえ鑁阿寺建立の事情を鑑みるに、かなり早い時期に防衛施設としての役割を終えていたのかもしれません。
 足利学校の周囲の土塁と水濠は足利氏館の外郭というより、一族もしくは有力家臣の別宅だったようにも思えます。
 方形館が今に残る例として、武田氏の躑躅ヶ崎館や茨城県つくば市の小田城がありますが、いずれにせよ戦国末期の改修が入っているので、技巧を凝らしたプランになっています。足利氏館の構成は極めてシンプルです。

 瓦の丸に二つ引は足利家の紋。
 楼門の上には丸に二つ引紋と菊紋と五七桐紋が並んでいます。菊紋と五七桐紋は天皇家から足利家に下賜されたもの。

 足利氏は足利尊氏の代に室町幕府を開いて武家の棟梁の地位に立ちますが、室町幕府の前期は南北朝時代、後半は戦国時代と騒乱の絶えない時代でもありました。
 足利将軍家は15代義昭で絶えますが、関東公方の末裔が石高5000石ながら諸侯格の喜連川氏として下野国喜連川で存続して血脈を伝えました。

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