2018年06月02日

特別展「兵庫山城探訪」(兵庫県立考古博物館)

 兵庫県立考古博物館の特別展「兵庫山城探訪」見学。
 兵庫県下には国指定史跡の城郭が18あるのですが、その中から山城11と県指定史跡の山城1つをピックアップしての特別展。
 
 各城の縄張図や赤色立体地図に合わせて、発掘等で出てきた瓦や陶器などを展示しています。派手さはないのですが、読み取りがいのある内容です。

 最近は「山城」というと中世城郭を指すことが多いのですが、兵庫県下は近世の改修をうけた城が多いのも特徴。
 利神城(佐用町)は姫路城の支城として池田氏が築いたものですし、竹田城(朝来市)や洲本城(洲本市)も織豊期以降の手が入っています。
 そこから時代をさかのぼっていく構成になっているのですが、いずれも個性豊かなお城ばかり。

 学芸員による展示解説にも参加。 パネルや出土品に解説が加わると面白さ10倍増しになります(当社比)。特にどういう観点から国指定史跡になったかというお話がよかったです。
 とにかく喋ってる人の「好き」が伝わってくる語りで、これは聞く側も楽しいです。
 会期中の日曜日13:30〜14:00(最終6/24)。
posted by ふくだ at 23:45| Comment(5) | お城

2018年05月06日

松山城(愛媛県松山市)

 松山城と名の付く城は全国に数あれど、一般的に松山城といえば伊予松山城を指します。冒頭写真は搦手から見上げた本壇。切込み接ぎの本壇、打込み接ぎの本丸、さらに野面積みの石垣が腰巻きのように取り巻き、三種三容の石垣を眺めることが出来ます。

 関ヶ原の戦い直後の1601年に加藤嘉明によって築城、江戸時代は久松松平家15万石の居城となりました。
 比高100mの山上に本丸があり、山麓に二の丸と三の丸があります。本丸には三重の天守がそびえ、現存十二天守の一つです。ただし江戸後期に火災で焼け、再建されたのは1854年と幕末の只中の「新しい」天守です。

 加藤嘉明は賤ヶ岳の七本槍にも数えられた秀吉恩顧の大名で、秀吉没後は加藤清正や福島正則と共に徳川方に付きました。関ヶ原の戦いの後に20万国で伊予に入封し、松山城を築きます。のち松山城の完成を見ずに会津若松に転封されますが、四国の主邑と奥羽の要地を任されたことからも、有力大名として重んじられていたことが伺えます。
 築城の名手としては加藤清正のほうが名高いのですが、加藤嘉明の手がけた松山城と会津若松城のいずれも堅城です。

 松山城の本丸には山麓からロープウェーとリフトが通じています。比高100mなら、城好きなら歩くところですが、今回は荷物が多かったので、リフトに乗りました。

 山上駅から5分も歩くと本丸一帯の高石垣が広がります。本丸と通称されていますが、大手はいくつもの枡形が重ねられた厳重な作りで、本丸内にも天守曲輪に相当する本壇という区画があり、さらに連立式天守がある三段構えといえる構成になっています。

 本壇のみ有料区画となっています。加藤嘉明時代は五層の天守だったと言われていますが、幕府に遠慮してか地盤の弱さを考慮してか、のちに三層に改められました。五層天守の大きさの天守台に三層の建物ですから、小ぶりながらも幅広で重厚感のある雰囲気を醸し出しています。
 連立式天守はすべてが現存建物だと思っていたのですが、実際は三層の大天守のみが江戸期の建物で、小天守と隅櫓は火災で焼けた後の昭和の再建。

 本壇のみ切込み接ぎの石垣なのが気になって観光ボランティアガイドの方に質問したら、「石垣のことを尋ねてくれるとは嬉しい」とすっかり意気投合して、搦手から本壇を一周し、さらには本壇内の建物まで付きっきりでご案内頂きました。いやあ楽しかったです。

 石垣はほぼ花崗岩ですが、倉庫として使われた大天守の内側のみ凝灰岩。間隙が多く吸湿機能を期待されての採用とのこと。
 再建建物の小天守と南北隅櫓の中は博物館的に城と城主家の歴史をたどる展示室になっています。ただし久松松平家は幕末に朝敵となったことから、「めぼしいものはみんなもっていかれちゃった」のだとか。

 久松松平家は家康の異父弟の家系で、江戸期は松平姓を与えられていました。維新後は明治天皇の命で姓を久松に復しています。現存十二天守のうち、葵の紋の入った瓦が使われているのは松山城だけとのこと。一方で本壇の櫓の一つには久松家の祖先とされる菅原道真公を祀った天神社があり、久松家で使われてきた梅の紋が入っています。

 司馬遼太郎「坂の上の雲」の主人公である秋山兄弟と正岡子規はいずれも松山藩士の出身で、劇中の旧主家は久松の名字で登場します。最初に松平と聞いてピンとこなかったのはそのせいかもしれません。

 山を降りて二の丸を仰ぎます。ふだんは二の丸が城主の住まいとして使われていて、ここも比高10mの高石垣と複雑な虎口に囲まれた厳重な作り。正直、本丸よりも二の丸を見て「ここまでするか」と思いました。

 国内に名城と呼ばれる城は多々あれど、十指に入る一つといってよい城だと思います。

続きを読む
posted by ふくだ at 23:49| Comment(0) | お城

湯築城(愛媛県松山市)

 道後温泉のすぐ近くにある道後公園が湯築城跡です。源平合戦時に源氏に着いて勢力を得た河野氏が、南北朝時代に築城し、戦国末まで使われました。
 比高30mほどの丘陵を二重の水堀で囲み、内堀に囲まれた丘陵部には少なくとも2つの曲輪が置かれ、外堀に囲まれた平坦部の区画は家臣団の屋敷がありました。

 以前は敷地全体が都市公園として整備されていましたが、公園の南部一帯で発掘調査が行われ、その成果に基づいて南部一帯は復元区域として遺構の整備や建物の復元が行われています。
 外観を武家屋敷風にした無料の資料館もあり、中には湯築城の復元模型や、発掘調査の出土品が展示されています。猫の足跡の着いた小皿など可愛らしい品物も。

 丘陵部は目立った遺構はなく、丘の稜線に沿って2つの平坦地があり、これが曲輪の跡です。
 細かく観察すれば小さな曲輪などの遺構があるかもしれませんが、公園として整備されたときに遊歩道など手が加えられているため、少し見ただけではなんとも分かりません。

 南北朝時代に伊予国の守護となった河野氏ですが、その後は一族内での内紛が絶えず、戦国末には毛利氏に従属するような立場になります。最終的には秀吉の四国出兵(1585年)の際に進退が定まらず、小早川隆景に城を囲まれ、開城して退去。戦国大名河野氏は滅亡します。
# 一遍上人は河野氏の出とのこと。知らなんだ。

 その後、1587年に福島正則が湯築城に入りますが、程なく今治の国分山城に移り、湯築城は廃城となりました。
 伊予松山城が築かれるのは関ヶ原の戦いの後のこととなります。

続きを読む
posted by ふくだ at 23:46| Comment(0) | お城

2018年05月05日

今治城(愛媛県今治市)

 築城の名手、藤堂高虎が築いた水城として名高いのが今治城で、現在は内堀に囲まれた部分だけが残っています。

 以前、しまなみ海道の開通直後に自転車で来たことがあるのですが、その時は壕の外から天守を眺めただけ。主郭部まで入ったのは今回が初めてです(たぶん……いや、入ったかなあ……でも記憶に無いんだよなあ)。

 瀬戸内海に近い場所で、堀の水は現在も海水が引かれているそうです。堀際に犬走りがあるのは同じく藤堂高虎築城の津城と共通。高虎の築いた城郭は他に宇和島城や伊賀上野城がありますが、一見しただけではそれほど堅固に見えないのが面白いところ。同じく築城名手で知られる加藤清正の熊本城など、見ただけで「うへぇ」となる壮大さなのですけど、高虎の城は説明を聞いてなるほどという玄人好みな印象。
 今治城は海から直接、船が城に着く海城としての縄張りが評価されたのかもしれません。

 五層の天守がありますが、これは戦後に建てられた模擬天守。今治城には天守台の遺構はなく、一次資料も少ないために、築城当時の天守の存否は意見が分かれています。
 その他の建物もいずれも再建。広めの堀に櫓が映えて、いかにも近世の平城といった景観です。

続きを読む
posted by ふくだ at 23:47| Comment(0) | お城

2018年03月04日

首里城 その3(沖縄県那覇市)

 うねうねと曲がりくねった首里城の城壁。堀がなくて石造の壁が続くのが日本の城と違うところで、むしろ中国風です。

 正殿の奥、御内原と呼ばれる区画は王族が暮らした場所。王族以外は男子禁制で、大奥に相当する区域です。首里城復元の総仕上げとして現在工事中。

 御内原を内郭城壁の外から見たところ。
 入り口から奥まった場所で、人影もまばらです。最近修復したのか、全く色合いの違う城壁がありました。あとで空中写真を見たら元は工事用の道路が通っていた場所のようです。再建工事が進むに連れて道路を撤去して城壁を再築したのでしょう。

 現在立ち入れる最も奥の場所。
 内郭城壁の下に横穴が3つ。解説板があったのですが、内容は忘れてしまいました(しまった!)。

 琉球王国は現在の沖縄県に奄美群島をあわせたほどの版図で、国の規模は小さなものです(ただし島の点在する範囲は広大なので陸地の面積の大小では比較しにくい面もあります)。海に生きる人々の国ともいえ、江戸時代の石高で換算するのは難しいのですが、なんとなく国持大名ほどの経済力だったのだろうと思います。
 沖縄は台風の常習地帯でもあり、城壁はともかく、木造の建造物は維持管理が大変だったろうなと思います。

 明治以降に琉球王国が廃されてからは急速に荒れ、昭和の初めまでに撤去された建造物も多々あります。一方で正殿などは保存運動が起きて修復工事も行われたのですが、沖縄戦で全て灰燼に帰しました。
 戦後は琉球大学のキャンパスが置かれたことで破壊された遺構もあり、受難に次ぐ受難を重ねた城郭ではあるのですが、古写真や発掘調査に基づいた復元が進められているのは、前向きに評価してよいものと思います。

 首里城の有料区画は当日再入場が可能なので、周囲の内郭・外郭含めて3周ほど歩いたのですが、全てのエリアの見学には至らず、またいずれ、御内原の再建が完了した折にでも足を運んでみたいと思います。
posted by ふくだ at 23:47| Comment(0) | お城

首里城 その2(沖縄県那覇市)

 首里城の中核は「御庭」と呼ばれる空間です。
 東の正面に正殿、向かって左に北殿、向かって右に南殿、西に奉神門。いずれも沖縄戦で壊滅した後、1990年代に再建。
# ここからは入館料が必要な有料区域。

 正殿は図面が残っていたこともあり、内部まで正確な復元がなされています。二層の屋根がありますが3階建て。1階と2階が政務や儀式に使う場所で、それぞれに玉座があります。3階は風通しのための屋根裏部屋(非公開)。
 真っ赤に塗られた壁面に赤瓦。飾り立てられた唐破風と、他に例のない雰囲気の建物です。

 1階の玉座。一段高い畳敷きになっています。
 1階の屋根は梁がむき出しになっているのですが、玉座の部分だけ天井が張られています。国王が政務を行っていたのが正殿の1階。

 2階の玉座は椅子が置かれています。残されている琉球国王の肖像画に描かれた玉座を参考に復元されたもの。背後の扁額は中国・清の皇帝から贈られたもの。沖縄戦で失われましたが、本人の筆跡や落款から文字を再現して復元しています。

 2階にはもう一つ王の座る椅子があります。椅子の前の扉を開けると正殿の前の御庭を見下ろせる位置で、国王が儀式に臨席する際に用いられました。
 外から見ると唐破風の正面に当たる場所。

 正殿2階から見下ろした御庭。
 赤いタイルが縞模様に敷かれた鮮やかな意匠。周りの建物が赤く塗られてるので、現地に立ってみるとさほど派手な印象はないのですが、空中写真で見ると目がチカチカするような賑やかさです。
 門に続く赤い道は浮道と呼ばれ、国王や中国からの冊封使のみが通ることを許された道でした。もともとは少しかさ上げしてあったそうですが、現在はバリアフリー対応なのか真っ平らになっています(北殿にある展示模型では一段高く作ってあります)。


 南殿と北殿はなぜか一枚も全景の写真を撮っていませんでした。
 左写真の奥の建物が南殿。御庭の周囲では南殿に連なる建物が白木の建造物です。日本風ということで日本に関係する儀式が行われたとか。
 右写真の右の建物が北殿。こちらは真っ赤に塗られており、役人が仕事をしていた建物。
 南殿・北殿は鉄筋コンクリート造で外観のみ木造復元。南殿は資料展示室、北殿は資料展示と売店となっています。おそらく外観の古写真は残っていたものの、内部の間取りの資料は復元するには足らなかったのかもしれません。近代建築なので空調やバリアフリー対応の設備は設置できるため、展示施設として活用するのは外観復元の建物の用途としては妥当なところだと思います。

 南殿に続く書院・鎖之間は木造で復元されています。
 正殿が儀式の場ならこちらは日常政務と接待の場所。基本的には日本風の造りなのですが、なんだろう微妙な雰囲気の違いは。
 釘隠しに金色の金具が使われているのが王族用、黒色の釘隠しだと家臣の使う部屋だとか。

 琉球石灰岩を活かした庭園。書院・鎖之間とともに国の名勝に指定。この庭園は戦前の写真が残っていたために復元されています。
 庭に敷かれている小石はよく見るとサンゴだったりします。

 同じ庭でも史料が残っていない箇所はただ芝生が張られた状態になっています。また建物があった場所でも形状がわからない部分は再建せずに石などで区画のみ示しています。
 真摯に再現に取り組んでいることを感じさせられます。

 

 有料区画では首里城公園のスタッフによる無料ガイドツアーが一日6回開催されています。今回はたまたま9時の回に間に合うタイミングだったので参加。
 これが素晴らしい内容で、一人で廻ったのなら見過ごしてしまうようなポイントをたくさん案内して頂きました。一回のツアーが50分間ですが、普通にさくさく廻っても30分はかかるコースなので、解説付きで50分だとむしろ短く感じるくらいです。ぜひぜひおすすめ。
posted by ふくだ at 23:46| Comment(0) | お城

首里城 その1(沖縄県那覇市)

 琉球王国の王城、首里城。

 モノレール首里駅で下車して歩いていきましたが、首里駅は城の裏側にあり、表に回るまで15分ほど歩きます。この日は朝から濃霧で、見通しがまるでききません。濃霧注意報が発令され、地元の人も「こんな濃い霧見たことない」という状態。

 冒頭の写真は城へ続くメインストリート「綾門大道」にある守礼門。門の名は「守禮之邦」の扁額から。1958年の再建で、沖縄の象徴的建造物。首里城の建物はすべて沖縄戦で破壊され、本格的な再建が始まったのは1990年代以降なので、いち早く復元された守礼門がながらく首里城唯一の建物でした。二千円札の図案にもなっています。



 沖縄の城郭は他の日本の城と違って、城壁を巡らせた中国風の造りになっているものが多くあり、首里城は全体的に二重の城壁で囲まれています。石垣をよく見ると、下の方の石の様子が違うところがあります。この部分が本来の首里城の石垣で、これより上は戦後に積み直されたもの。
 首里城は第二次大戦時に陸軍が司令部を置いたため、沖縄戦で徹底的な砲撃を受けました。建物だけでなく、石垣も大部分が崩壊。現在の石垣は9割が復元とのことです。

 外郭の門が歓会門。石造アーチが組まれているのは年代的に新しい門で、後から築かれた外郭の門はすべてアーチになっています。
 門の脇にシーサーが控えているのが面白いところ。最初は狛犬かと思いました。

 内郭の最初の門が瑞泉門。石垣の切れ目に櫓を乗せて門にする形式で、外郭の歓会門のアーチより古い形式。
 門の脇に龍樋と呼ばれる湧き水があり、首里城の水源となっています。丘の頂部に近いところの湧き水は珍しく、NHK「ブラタモリ」でも取り上げられていました。水を通しやすい琉球石灰岩と水を通さない泥岩の境目から湧いているそうです。

 内郭の内側も細かく門で区切られています。次に控えるのは漏刻門。漏刻は水時計のことで、櫓の二階に漏刻が設置されていたそうです。
 それにしても「水時計」と書いた額の下を、王様から家臣までみんなして通っていたのかと思うと面白いです。

 「日影台」つまりは日時計。漏刻門の内側にあります。北京の故宮にも日時計があったのを覚えています。権力者たるもの時を司らねばならぬのです。
 当時は日の出と日の入りの間を等分する不定時法だったので、文字盤は節気ごとに変えていたそうです。なお文字盤をどのように支持していたのかはよく分からないそうとか(この状態はただの修理待ちだと思いますけど)。

 日時計の東側にある小屋の中に「万国津梁の鐘」のレプリカが収められています。伝承では首里城正殿に掛けられていたことになっているのですが、具体的な場所がわからないため、ここに置かれているとのこと。首里城正殿は江戸期に大規模な修理を行っているため、消失前の精密な図面が残っているのです。

 広福門と奉神門。建物自体が門になった巨大な長屋門のような建物。広福門をくぐると下の御庭と呼ばれる広場があり、そこから奉神門をくぐるといよいよ正殿です。

 下の御庭にある「首里森御嶽(すいむいうたき)」。御嶽は礼拝所のこと。自然の木や石をそのまま祀ったものもあれば、何らかの構造物で区画したものもあります。城の中核部にどんと礼拝施設があるのが城(グスク)らしいです。首里城の場内には10箇所の御嶽があるそうです。

続きを読む
posted by ふくだ at 23:45| Comment(0) | お城

2018年01月14日

大坂城

 突然、お城に行きたくなって、大坂城へ行ってきました。

 縄張りを見るのが好きなので、天守があっても登ることはめったにないのですが(現存建物は別)、今回は久しぶりに登閣してきました。
 大坂城は小学1年のときに父に連れて行ってもらったことがあり、天守も登っているのですが、細かい記憶が全くありません。むしろ初めて乗った新幹線の方を覚えているくらい。

 大阪城公園内には何度も足を運んでいますが、天守に登った記憶となると……さて。
 「大阪城天守閣」の内部は大坂城の歴史や豊臣秀吉を紹介する博物館になっています。豊臣期大坂城と徳川期大坂城の復元模型があり、これだけ見た覚えがあります。うーん。
 神戸に住み始めて間もないころ、自転車で大阪までサイクリングしたことがあり、もしかするとその時に天守を見学したのかもしれません。
# さすがに小学1年の時に豊臣期と徳川期の大坂城の違いは認識してないです。

 今回驚いたのは外国人観光客の多さ。日本人より多いくらいですが、そんなに大坂城って魅力的な観光スポットでしたっけ。いや、天守は復元にしても石垣や堀の壮大さは日本有数のものですが、そんなに遠くない場所に世界遺産の姫路城もありますし。
 大阪は買い物食べ物出来る街なので、合わせてルートに組み込まれているのかな。

 その大阪城天守閣、展示もまずまず面白く、特に企画展がよいです。私が訪問したときは秀吉にまつわる人々の手紙がたくさん出品されていて、見ごたえがありました。
 過去の企画展の図録も豊富に取り揃えてあるのもよいです(家の本棚が溢れてなければ財布の紐が緩むところでした)。

 天守最上階は展望台になっていて、大阪は伊丹空港の進入路の真下にあるために高い建物が少なく、それゆえ今でも遠望が効きます。浪速のことも夢のまた夢。
posted by ふくだ at 23:45| Comment(0) | お城

2018年01月02日

駒寄城(茨城県坂東市)

 坂東市役所猿島支所(旧猿島町役場)の近くにあるお城。
 飯沼に突き出た半島の先端を堀で区切ったお城です。小規模なお城で、逆井城の支城とも。
 西側の台地とは西仁連川で区切られていますが、これは江戸時代の飯沼干拓事業で掘られたもので、かつては地続きでした。

 空堀が堀底道となり、現在も小径として利用されています。並行して土塁もあり、虎口の部分は枡形様の折れ曲がりがあります。
 往時は逆井城-駒寄城-弓田城と飯沼沿いを監視するネットワークが築かれていたのでしょう。

続きを読む
posted by ふくだ at 23:47| Comment(2) | お城

逆井城(茨城県坂東市)

 発掘調査に基いた中世城郭の復元で城郭ファンに知られる逆井城。
 1982年から発掘調査が行われ、平成初頭に城址公園として整備されました。公共交通機関によるアクセスが難しい場所で、私は高校・大学時代に自転車や原付で見学に行ったものです。

 逆井城については下記のサイトが手際よく現状を紹介しています。

天守閣だけが城じゃない!茨城県「逆井城跡公園」これが戦国の城だ(Travel.jp)

 何度も訪問しているので特に目新しいことはないのですが、東日本大震災以降は立ち入りできなくなっていた井楼矢倉に登ることが出来ました。この井楼矢倉が出来た当初も階段は塞がれていたので、実は今回が初登楼。
 眼下の堀は充分射程内ですが、眺め自体はそれほどでもないというのが正直な印象。公園の整備がよく出来ているだけに、上に登ると周囲の田畑や家屋が見えてかえって現在に引き戻されてしまいます(苦笑)。これは外から見上げるのがよし。

 縄張りはシンプルですが、主郭虎口の横矢土塁や二郭外郭の比高二重土塁など要所の工夫は後北条氏らしく手抜かりがありません。ぜひぜひ多くの人に見ていただきたいお城です。

続きを読む
posted by ふくだ at 23:46| Comment(0) | お城