2020年10月27日

坂本城(滋賀県大津市)(10月24日)

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 坂本城は1571年、比叡山焼き討ちの後に織田信長が明智光秀に命じて築かせました。
 坂本は延暦寺の門前町でもあり琵琶湖水運の港町でもありました。

 現代の国内の輸送手段といえばトラックですが、当時は自動車はありませんし、日本は国土が山がちという理由もあるのでしょうが馬車が通れる道路も整備されませんでした。馬に背負わせる荷物はたかが知れていますし、馬そのものが食料も水も消費するので、大量輸送には全く向きません。
 ということで、現在のトラックに相当する分を水運が担っていました。船なら大きさに応じて大量の荷を運べますし、海面や湖面なら風を動力に使えます。鉄道以前は水運がもっとも効率の良い大量輸送機関でした。自動車が輸送の主力に躍り出るようになって、まだ百年も経っていません。

 っと、話がそれました。例えば日本海側の産物は敦賀で陸揚げされて琵琶湖に降ろし、湖上経由で京都に運びました。このとき京都側の陸揚げ地の一つが坂本です。
 つまり坂本城は延暦寺の押さえであると同時に、京都の喉元を水運を確保する城でした。

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 明智光秀が本能寺の変を経て山崎の戦いで破れた後、坂本城も羽柴勢に攻められて落城します。その後もしばらく使われるのですが、1586年に大津城を新たに築くことになり、資材を転用したために遺構はほとんど消滅しました。

 発掘調査で焼土層や遺物が確認されているので、坂本城の範囲はほぼ分かっています。ただ石垣は大津城に転用したと思われ、堀跡は道路になり、地表に見える遺構はほぼありません。

 唯一といっていいのが琵琶湖畔に残る石垣の基部で、石垣の根本の石は掘り起こさずに残されたのでしょう。ただ通常は琵琶湖の水面下で、渇水等で湖面が下がったときでないと見ることができないそうです。
 冒頭の写真はその石垣がある場所。この日も全くその様子は分かりませんでした。城好きとしては故地に立てたというだけでもひとまず満足です。

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 本丸の大部分は企業の敷地になっていて、門の脇に大津市教育委員会が立てた石碑があります。
 また二の丸・三の丸は下阪本の集落になっていて、旧街道の一角に城址の碑があります。二の丸の南西端に当たる場所で、道路が堀跡と推定されています。

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2020年08月06日

新宮城(和歌山県新宮市)

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 新宮城は関ヶ原の後に和歌山に入った浅野幸長の家老・浅野忠吉によって築かれました。
 浅野氏が広島に移ったのち、徳川家康の十男頼宣が紀州徳川家として和歌山に入ると、家老の水野氏が新宮に入ります。ちなみに広島に移った浅野氏の分家が忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩。

 今でこそ和歌山県の東端の新宮ですが、廃藩置県の前の紀伊国は今は三重県となった紀伊長島のあたりまでが領域で、新宮は紀伊南部の中心の街でした。
 和歌山・海南をすぎると大きな街がないので、新宮市街に入ったときには人口10万くらいの大都会かと思ったのですが、2020年現在の人口は2万7千人弱。でも人口以上に街の風格があります。

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 新宮の街は熊野川の河口の西側にあります。その熊野川を見下ろす丘の上に新宮城があります。紀伊徳川家の支城くらいのつもりで登ると、立派な石垣に驚きます。
 南紀熊野ジオパークのサイトでは流紋岩ですが、産総研の地質図Naviでは花崗岩。

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 本丸周辺の石垣は良好に残っている割に、なぜか天守台だけが中途半端に破壊されています。建物はすべて明治に破却されてしまったのですが、再建を目指して古写真や図面を集めているそう。
 戦後は地域のシンボルや観光目的で天守風の建物がポンポン建てられたのですが、現在は文化庁の指導もあって、城郭建築を復元する場合は、元の建物に忠実な復元を行うことが原則とされています。良い資料が出てくると良いなと思います。
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2020年06月28日

吉野ヶ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町・神埼市)

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 吉野ヶ里遺跡は弥生時代の初頭から古墳時代まで、数百年に渡る人々の営みが刻まれています。
 工業団地の開発計画に伴い、1986年より本格的な発掘調査が始まるのですが、大規模な環濠集落や物見櫓、楼観の跡が検出され、「魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の集落のよう」と大きな話題になりました。
 その後、遺跡は国の特別史跡に指定され、一帯は国と佐賀県によって吉野ヶ里歴史公園として整備・公開されています。復元建物は遺跡がもっとも栄えたとされる弥生時代後半を基準にして建てられています。

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 吉野ヶ里遺跡南内郭。吉野ヶ里遺跡は集落全体を南北1km・東西0.6kmの大きな環濠が囲んでいます。その中に、さらに130m×70mの区域を環濠で囲んでいるのが南内郭。弥生時代の後半に作られた区画で、吉野ヶ里を治める上層部の人たちの住んだ区域と推定されています。

 発掘調査当時の新聞に「邪馬台国が見えた」という見出しが躍ったと何かで読んだ記憶がありますが、気持ちは分かります。この規模の環濠はちょっとすごい。

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 吉野ヶ里遺跡北内郭。
 南内郭から200mほど北東にあり、二重の環濠に食い違いの出入口、張り出し部に設けられた物見櫓と、厳重な区画になっています。弥生時代の終末期に築かれた区画。
 祭祀などが行われていたと推定される場所で、竪穴式の建物は一つしかなく、何より特筆すべきは超大型の掘立柱建物があることです。このため上層者の住まいだった南内郭と性格が異なり、北内郭は祭祀や政を行う特別な空間だったとが推定されています。

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久留米城(福岡県久留米市)

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 久留米城は有馬氏21万石の居城です。
 有馬氏はもともと有馬温泉のある摂津国有馬郡の出で、羽柴秀吉の中国攻めに際してこれに味方し、秀吉死後は徳川家康に付いて戦国の世を生き抜きました。有馬郡の摂津三田2万石から丹波福知山8万石に転じ、更に大坂の陣の功で筑後久留米21万石の国持大名となります。

 近世城郭としての久留米城は小早川秀包(毛利元就の九男で小早川隆景の養子)によって築かれましたが、有馬氏入府に際して大改築が行われ、天守はないものの本丸には三層櫓が7棟立ち並ぶそうそうたる城郭となりました。

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 久留米城の二の丸・三の丸は現在はブリヂストンの工場となっています。二の丸は藩主の御殿、三の丸は家老屋敷や蔵屋敷がありました。

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 本丸の石垣は良好に残っています。
 石垣の折れ曲がりは縄張りのハイライトですが、久留米城の周囲は石垣の凹んだ空間が駐車場に使われています。そんなところに車を置いたら城内から十字砲火の集中攻撃ですよ。

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2020年06月27日

唐津城(佐賀県唐津市)

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 唐津城は関ヶ原の戦いののち、1602〜08年にかけて寺沢広高によって築かれました。海に突き出した半島突端の丘を城郭化した堅固な造りです。
 唐津の地名が記録に出てくるのは室町以降で、この一帯はもともと「松浦」と呼ばれていました。松浦郡となるとかなり広域な地名ですが、唐津は松浦川の河口にあるので、有力な中心地の一つだったのでしょう。元は魏志倭人伝の「末羅国」までさかのぼる由緒ある地名で、中世には松浦党と呼ばれる武士団が活躍しました。

20200627karatsujo04.jpg 現在の天守は戦後に建てた模擬天守で、もともと唐津城には天守がなかったとされています。少なくとも1640年代の正保城絵図には天守が描かれていないのと(天守台すら描かれていないのですが、単に省略したのかもしれません)、今のところ天守の存在を窺わせるような資料も残っていません。
 模擬天守は肥前名護屋城図屏風の名護屋城天守を模したそうで、周囲の景観にはすっかり溶け込んで、遠目には違和感がありません。

 名護屋城は唐津領内にあり、唐津城から見て北東15kmになります。名護屋城は朝鮮渡海の拠点としては優れた立地ですが、唐津領の治所としては北に偏りすぎ、また天下人の城を一家臣が使用するのは恐れ多いという意識もあったかもしれません。名護屋城には城番が置かれていたそうです。

 名護屋城の資材を唐津城に転用したという逸話もあるのですが、石垣については名護屋城は玄武岩、唐津城は花崗岩が主体なので、これはなさそう。ただ解体した建物の木材や瓦を転用した可能性はありそうです。
 なお発掘調査では寺沢広高の築城以前にさかのぼる可能性のある石垣や名護屋城と同じ様式の金箔瓦が検出されていて、名護屋城への中継拠点となる城が築かれていた可能性も指摘されています。

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 唐津城の三の丸には市役所が置かれ、周囲も市街化しています。市役所前には石垣と堀が残り、単層の隅櫓が復元されています。また堀も兼ねていた町田川沿いにも三の丸辰巳櫓が復元されています。

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 二の丸も市街化していますが、堀と石垣は残っています。
 二の丸と本丸はさほど高くない石垣で区切られ、本丸側には御殿が建っていました。現在は早稲田佐賀中学校・高等学校の敷地になっています。

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名護屋城(佐賀県唐津市)

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 豊臣秀吉が文禄・慶長の役の基地として築いたのが名護屋城です。
 1591年秋に築城が開始され、翌春までの短期間にはほぼ完成したと想定されています。その後、文禄・慶長の役を通じて朝鮮渡海の前線基地となり、1598年の秀吉の死に伴う撤兵に伴って役割を終えました。
 後に名護屋城は大規模な破却を受けますが、現在も大規模な石垣が残り、天下人が築いた織豊期城郭の勇姿を今に伝えています。

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 名護屋城大手口。ここをくぐって真っ直ぐな坂道を登っていきます。
 石垣が崩れているのは破却と呼ばれる人為的な破壊によるもの。明確な時期は分からないのですが、おそらく一国一城令か島原の乱の後に城の再利用を防ぐために破壊したものと推定されています。

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 東出丸の門。ここをくぐって180度転回し、もう一つ門をくぐって三の丸に入ります。ここから城下を見下ろすと東に見える入り江が名護屋浦。写真では木々の間に少しだけ水面が見えますが、幅150〜250mの入り江が2.5kmに渡って切れ込んでいる天然の良港。ここが朝鮮へ向かう船団の根拠地となりました。

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 三の丸。本丸に直結する曲輪で、肥前名護屋城図屏風では能舞台と思われる建物が描かれています。右写真は馬場から三の丸への虎口。隅櫓の下の石垣には城内最大級の鏡石が3つはめ込まれています。

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 本丸大手から本丸へ。
 本丸に上がるといきなり眺望が開けて、感動的です。

 発掘調査の結果、多数の建物からなる御殿が検出されています。秀吉が名護屋城に滞在したのは2回で、期間は合計1年間ほど。本丸御殿にいたのは初回の3ヶ月のみと考えられています。母の大政所の危篤の知らせで帰坂し、再度、名護屋に戻ったときは下方の山里丸に滞在しています。

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 天守台。
 周囲の石垣は念入りに破却されていますが、穴蔵の底部と礎石が残っています。
 一段と眺望がひらけ、目の前に玄界灘。天気が良ければ壱岐・対馬まで見えるそうです。この景色に望むと、ここに名護屋城を築いた理由が分かるような気がします。良港を抱え、かつ島伝いに最短距離で渡海できる拠点。
 もっとも多い時期にはこの周囲に10万人が居住し、一時的ながら日本の中心地でした。

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2020年06月26日

福岡城(福岡市中央区)

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 福岡城は黒田家52万石の居城です。
 関ヶ原の戦いの後に入府した黒田長政による築城。博多の西側にある丘陵地帯の北端を掘り切り、独立させた丘を中心にした平山城。往時は47の櫓や10の城門を備える大城郭でした。

 1601年に工事が始まり、1607年に完成。「福岡」はこのとき新たにつけられた地名で、従来の博多は商人の町、新たな福岡の城下町は武家の街として、性格の違う街が隣接して発展することになります。

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 鴻臚館跡の敷地に隣接した「福岡城むかし探訪館」に江戸時代末を想定した模型が展示されていますが、幅の広い水濠と複雑に折れ曲がる石垣に守られた堅城ぶりです。

 現在、南側の堀は埋められていますが、他の三方は水をたたえた姿を残し、石垣も良好に保存されています。

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 三の丸から東二の丸に入る東御門(左写真)と東二の丸から二の丸に入る扇坂門(右写真)。いずれも大手から本丸へ至るメインルートの途上。

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 二の丸の東側では石垣の修復工事が行われていました。この石垣の上に祈念櫓という二層櫓があるのですが、現在は工事に伴って解体されています。

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 本丸の天守台。
 江戸時代の前期、正保城絵図と同時に作成されたと推定される「福博惣絵図」には天守が描かれておらず、福岡城には天守は築かなかったとするのが定説でした。
 一方で肥後細川家の書状に「長政が幕府に遠慮して天守壊すって言ってた(意訳)」と記したものが発見され、事実とすると一度は天守を築いて取り壊したことになります。

 天守台には穴蔵となる地階が作られ、礎石も据えられているので、建物を作る気はあったのではないか思います。時代が下って大坂の陣の後に築かれた明石城は、天守台はあるものの最初から建物を作る気はなく、場所も中途半端で礎石もありません。

 周辺に目を向ければ、肥後には加藤清正の熊本城、豊前には細川忠興の小倉城があり、いずれも大きな天守が上がっています。関ヶ原の直後は各地で天守がどんどん建てられていて、黒田家だけが最初から遠慮したというのはどうなのでしょう(個人の感想です)。

 仮に天守があったとしても、絵図も図面も残っていないので、建物を復元するのは難しそうです。先ほどの「福岡城むかし探訪館」の復元模型では天守を建てているのですが、他の建物と屋根の色を変えて特別な扱いにしてあります(どのみち江戸後期には天守はありませんし)。
 ちなみに福岡市博物館にある福岡・博多の模型には天守は建っていません。

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元寇防塁・生の松原地区(福岡市西区)

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 鎌倉時代の後半、ユーラシア大陸に覇を唱えたモンゴル帝国が日本を攻めてきました。世に言う蒙古襲来です。
 一度目は1274年の文永の役。元と高麗の連合軍3万が対馬・壱岐を攻略して博多湾に襲来。元軍の上陸を許し、西国の御家人たちは苦戦を強いられますが、夜になって元軍は撤退していきます。

 この戦いを経て、鎌倉幕府は博多湾沿岸一帯に上陸を水際で阻止する石垣を築きます。当時の呼び名で「石築地」、現在は「元寇防塁」として知られる日本版の長城です。全体の長さは20kmに及び、西国の御家人が国ごとに分担して工事を行いました。

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 防塁は博多湾沿岸全域に築かれたので、現在も福岡市内各地に痕跡が残っています。もっとも市街の中心部に近い部分は海岸線の埋め立ても進み、また福岡城築城の際に解体して石材が再利用されたりしたため、良好に残存しているのは郊外のほう。

 今回は生の松原という海岸線沿いの防塁を訪問しました。松林が広がる景勝地で、九州大学の福岡演習林早良実習場となっています。

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 一帯は国の史跡に指定されています。
 海際に遊歩道があり、その陸側の緩やかな高まりに防塁が埋もれています。何も知らなければ砂丘と思ってしまいそう。

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 生の松原の防塁の中央部が、掘り出された上で当時の高さに復元されています。

 石塁の低い部分が埋もれていた当時の部分、高い部分が当時の高さまで復元して積み増ししたもの。海側からの高さは2mほどですが、騎馬を防ぐには十分ですし、船で砂浜に乗り上げて石塁に取り付くまでは一方的に陸側が有利になります。

 実際、元の二回目の襲来となった1281年の弘安の役で、防塁を見た元軍は博多湾への上陸を諦め、数ヶ月に渡って九州北部の島や海上に留まり、暴風雨の被害を受けることになります。

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2020年06月25日

小倉城(北九州市小倉北区)

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 小倉城は九州の入口にある要衝です。現在の近世城郭の形を整えたのは関ヶ原合戦の後に入府した細川忠興。のちに肥後に移って幕末まで続く肥後細川家の祖となります。文化人として知られる細川幽斎(藤孝)の子で、忠興本人も利休七哲に数えられる茶人。妻は明智光秀の娘・玉で、ガラシャ夫人の名で知られています。家族揃って戦国の有名人。

 現在は埋め立てられていますが、細川忠興の改築当時は関門海峡が直下に迫る海城でした。
 今も本丸周囲の堀や石垣が残っていますが、縄張りは半ば市街地に飲み込まれていて、古地図と比較しないと全体を想像するのは困難です。一方、小倉駅からさほど遠くなく、特に駅のある北側からのアプローチは良好に遺構が残っているので、お城に登る雰囲気は十分に楽しめます。

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 二の丸から本丸方面への虎の門。小倉城の正面に当たる門です。大きめの石が組まれていて、見せることを意識した作り。縞模様の巨石がいくつも組み込まれていて、さすが茶人はやることが違います。

20200625kokurajo04.jpg20200625kokurajo05.jpg 小倉城の天守は四層五階。細川忠興の時代に建てられましたが、1837年に失火で焼失(第二次長州征討の前!)。現在の天守は1959年に再建されたものです。
 元の天守は層塔型天守という形式で、破風がまったくなく、最上階が下の階よりはみ出た「唐造り」「南蛮造り」と呼ばれるもの(右写真模型)。当時から風変わりで細川忠興の好みが強く出た建物です。

 昭和の再建時には簡素すぎると思われたのか、破風で飾った姿に改変されています。戦後に各地で建てられた復興天守は地域のシンボルであり、また観光目的の色あいも強かったので、こうしたアレンジは多少の差はあれ各地で行われています。天守建造物の再建時に文化財の観点からの厳密さが求められるようになるのは概ね平成に入ってからとなります。

 城郭ファンとしては旧状を復元する再建がベストと考えますが、再建時に地域の人々が天守に託した思いも含めて城の歴史でもあり、既に建てられた建物についてはこうした事情も鑑みて見ていこうと考えています。

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 本丸へ入る大手門。天守までにはもう一つ槻門(けやきもん)というクランクに曲がる門があり、外から見る以上に厳重な構え。
 本丸には宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の銅像。そういえば巌流島は小倉の領地でしたっけ。

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2019年12月31日

お城訪問リスト2019

20190825hachigata_takasaki049.jpg これまで巡ったお城のリスト、2019年版です。
 累計が168城。実際はもっと回っていますが、記憶が怪しいところは外しています。デジカメ以降は撮影データから訪問年月日が分かるので便利になったものです。

 いわゆる城郭だけでなく、江戸時代の陣屋、近代の要塞施設まで、防御施設全般を含めています。また総構えに入っただけのものは含めず、本城域内に入ったものは主郭に至らずとも数えています。

 日本100名城のスタンプラリーは参加していませんが、該当する城郭はカウントしました。100名城は有名どころが多いので半分を越えていますが、続100名城となると多少マニアックな選定もあり、まだまだです。


総計:168
日本100名城:53/100
続日本100名城:19/100
現存12天守:7/12(うち国宝5城:4/5)

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