2019年05月16日

雑賀城(和歌山県和歌山市)(3月14日)

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 雑賀衆といえば戦国時代の和歌山市のあたりに勢力を置いた国衆の連合で、鉄砲の名手と伝えられる雑賀孫市(鈴木孫一)の名が知られています。

 雑賀城は雑賀衆の有力武将、鈴木重意(孫一の父)が築いたと言われていますが、現在は遺構らしい遺構は残っていません。頂上に妙見堂の祠があり、削平地ではありますが、当時のものか後で削ったものかわかりません。
 山全体が緑泥片岩の塊で、同じ方向に割りやすい石なので石垣の材料には苦労しないはずですが、一時的な陣地に使った程度で、地形に手を加えるほどの築城はなかったのかもしれません。ちなみに後に築かれる和歌山城も古い石垣は緑泥片岩です。
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2018年11月08日

司馬遼太郎記念学術講演会「司馬文学における人と城」

 大阪大学で開かれた「司馬遼太郎記念学術講演会」に参加してきました。
 司馬遼太郎でなぜ阪大? と思ったのですが、司馬の母校の後身の大阪外語大学は阪大に統合されていたのでした。知らなんだ。
 講師が城郭研究で各メディアで活躍中の千田嘉博先生ということで、申し込みました。演題は「司馬文学における人と城」。大阪ですし「城塞」の大坂城とか、あるいは中世城郭でどこか選んでくるかと思ったのですが、まさかの幕末。箱館戦争の二股口の戦い(二股陣地)と五稜郭と周辺の砲台。作品は「燃えよ剣」です。確かに箱館戦争でいちばん土方歳三が生き生きしていたのが二股口の戦いだとは思うけど、稜堡築城の話になるとは思いっきり搦手を突かれました。
 ただ千田先生の経歴を聞くとドイツに学んだ経験があるとのことで、西洋城郭にもお詳しいのは納得。西洋城郭に発展史を交えて、五稜郭を始めとする幕末の築城の歴史的位置づけなど、興味深いというか面白いお話でした。

 講演に先立って、阪大の学生によるビブリオバトルが行われました。司馬遼太郎の小説に限定して、5人の学生が作品の魅力を語ります。私としては新選組血風録を読み返したくなったのですが、会場の投票で「花神」を押した学生がチャンプに。参加者の年齢構成等を見て、一番ウケがいいのではないかとは思ってました(なにせ私より若いのは学生を除くと片手に足るかどうかくらいという)。「花神」は未読のままなので、いずれ読んでみたいです。

 考えてみれば司馬遼太郎も没後20年以上が過ぎ、今の学生は存命の時代を知らない人ばかりです。
 昭和どころか平成もだんだん歴史の一コマになりつつあります。
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2018年08月04日

小田城(茨城県つくば市)

 茨城県つくば市の小田城。鎌倉時代から続く名家、小田氏の本拠です。
 国指定史跡にもなっていますが、これは南北朝時代に北畠親房が常陸南朝の拠点として神皇正統記を執筆した故事を評価された面が強く、現在残る遺構は戦国時代末期のものです。

 常総地方の城郭は洪積台地の縁の高低差を利用したものが多いのですが、小田城はまっ平らな占地。小田氏が初期に館を置いた場所を、そのまま使い続けたのだと思います。
 戦国時代には落城に次ぐ落城を重ね、小田氏最後の当主である小田氏治はゲームなどを通じて「戦国最弱」として有名になります。2018年にはNHKの歴史秘話ヒストリアで小田氏治をテーマとした回が作られるほどになり、NHKの正気を疑いました(いいぞもっとやれ)。

 かつては低い土塁に囲まれた主郭と、周囲より一段低い細長い水田の堀跡が城跡を物語っていました。主郭の中央を筑波鉄道が両断し、その筑波鉄道も廃線となり、「兵どもが夢の跡」を体現する雰囲気だったのを覚えています。

 その後、2004年からつくば市が本格的な発掘調査を開始、2016年に調査結果を元に歴史公園「小田城跡歴史ひろば」を整備して公開しています。私が知っているのは1990年代前半の姿で、今回は面目を一新して以来の初訪問となります。

 冒頭の写真は再現された小田城主郭の模型。
 方形館を拡張したシンプルな形に見えますが、堀は障子堀、隅の櫓台は突出して虎口に横矢をかけ、意外な重防備です。実はこれは小田城の最終期に佐竹氏によって改修された姿。

 小田氏治が小田城を最後に失陥したのは1573年(1567年とも)。秀吉の小田原平定までの約20年間は佐竹氏の最前線にあり、その間は佐竹氏による改修が行われたことになります。ついつい小田氏のイメージで見てしまうのですが、後北条氏の関東制覇を阻んだ常陸の雄の手が入った城と見ると、また印象が違ってきます。

 小田原攻めの半年前、1590年1月に小田氏治は小田城に大攻勢をかけますが、今一歩及ばずに撤退。強化されたかつての居城の姿に歯噛みしたことでしょう。
 北条方に付いた小田氏は改易されますが、氏治は結城秀康の客分として越前で天寿を全うします。

 上記の模型があるのは旧筑波鉄道常陸小田駅跡に建てられた「小田城跡歴史ひろば案内所」。
 発掘調査を元に小田氏と小田城の歴史が展示されていて、小ぶりながら充実した内容。つくば市いい仕事してます。
 職員の方とお話したのですが、「ヒストリア」の放送以降、全国各地から小田氏の末裔の方がやってきて、青森と沖縄以外の都道府県に散らばっているのだとか。

 主郭と東・南西の馬出しが整備されていて、土塁は以前より高く積み増しされています。2mまで積んだそうですが、これでもまだ往時よりは低いはず。
 南西の馬出しへの虎口は石積みが発掘されました。これは整備以前では知られていなかったもの。

 主郭の内部は建物跡や庭園が整備されています。
 ほぼ100m四方の主郭の内部は3つほどに区画され、西側に主殿がありました。主殿の建物や庭園の配置は室町期の武家屋敷の標準に則ったつくりで、小田氏が歴史ある氏族であることを物語っています。

 土塁や堀は分かりやすくなりましたが、以前の状況を知っている身としてはきれいになりすぎた感もあります。とはいえそれは贅沢な感想で、土塁と空堀で作られたこの地域の中世城郭の姿を分かりやすく伝えるには、よい整備をされたと思います。

 整備されていない部分の堀跡。写真中央の低くなった部分がそれで、以前の小田城はこれをたどって縄張りを推定したのでした。

 唯一残念なのは、筑波鉄道跡に整備されたサイクリングロード。
 鉄道時代は主郭を真っ二つに分断していたのですが、自転車道は主郭を迂回するルートを採っています。これが主郭の南から西側にかけて、土塁の下を犬走りのように取り巻いて、雰囲気を損ねています。将来はもう少し外側の曲輪を通るよう再整備してもらえると良いなと思います。
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2018年07月26日

岡山城(岡山県岡山市)

 岡山市には高校の修学旅行で泊まったことがありますが、泊まっただけで市街には全く出ていません。
 四国と山陰の鉄道結節点なので、旅行中に何度も通過はしたのですが、これまた降りたことがありません。
 ということで事実上はじめての岡山市です。

 さて岡山城。
 戦国屈指の謀略家・宇喜多直家の居城であり、関ヶ原で華麗な寝返りを決めた小早川秀秋の居城です。江戸時代は池田氏が治めますが、宇喜多・小早川がどうにもアクが強い印象です。

 黒い五層天守がシンボルで、別名が「烏城」。天守台平面が五角形ながら上階で四角になる変わった建物で、安土城天主(天守台平面が七角形)に範をとったとも言われています。残念ながら第二次大戦の空襲で焼失し、現在の建物は戦後の復興天守。内部は資料館になっていますが、戦災で焼けたお城は当時の資料もろとも失ったところが多く、岡山城も城の歴史を苦労しながら展示されていました。
 本来の玄関は天守左側に接続する白い櫓にありましたが、再建時に現在の位置に移しています。天守台の石垣を削ったのかな?。 南側から見ると堂々たる姿。
 お城の東の川側(後楽園側)から天守を眺めると、四角でない平面形の姿がよくわかります。建物の奥行きが薄く、上部はほっそりとした印象になります。

 本丸は幅の広い水堀で囲まれています。堀の周りの石垣も低く、平城かと思っていましたが、本丸内部は比高10m以上ある小山になっています。なるほど「岡山」の名にふさわしい地形。本丸の中で通路が複雑に折れ曲がり、本丸内部だけでも独立した城郭としての防御力を保持しています。

 天守直下の月見櫓は当時の建造物で国指定重文。本丸の2つの門は復元建造物です。

 元は三の丸まで5重の堀で囲まれた広い城郭でしたが、明治以降、本丸を残して市街化してしまいました。本丸だけだとさほど大きな城という印象を受けないので、ちょっともったいない感。それでも二の丸あたりは市街地の中に石垣が残っていて、頭の中で塁線を繋いで往時の様子を偲べます。将来的に残存石垣の周囲を公園として整備してくれると、より城の姿を思い浮かべやすくなるのではないかと夢想。
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2018年06月03日

長浜城(滋賀県長浜市)

 羽柴秀吉は信長の浅井氏攻めで手柄を立て、浅井氏の旧領を拝領します。その際に領国経営の拠点として築いたのが長浜城です。
 浅井氏の小谷城は堅固ではあるのですが、山上で交通の便は悪く、秀吉は琵琶湖に面した地に新城を築き、城下町も小谷から移したのでした。

 本能寺の変まで秀吉の居城で、賤ヶ岳の戦いの後は山内一豊が長浜城主となります。最終的には大坂の陣の後に廃城となり、資材は彦根築城に転用されました。元は湖城といってよい平城だったので、きれいさっぱり撤去されてしまったようです。知名度は高いのですが、わずか40年ほどしか存在しないお城でした。

 その後の調査で湖底の石垣が発掘されたりしたそうですが、現在は碑があるのみで石垣そのものを見ることは出来ません。豊公園として整備された一帯が城郭の主要部だとして昔を偲ぶのが良さそうです。
# 城門が城下に移築されて残っているそうですが、こちらは足を運ばすじまいでした。

 現在建つ天守は1983年に作られた模擬天守で、内部は長浜城歴史博物館になっています。
 当時の図面はもちろん、天守の外観を描いた絵も残っていないので、天守の形は完全に想像によるもの。犬山城などを参考にしたそうですが、時期的に望楼型の天守はそれなりに雰囲気が出ていると思います。
# ファセットのペーパークラフトが売店で売っていて、これが値段の割によい出来でした。置き場所さえ確保できれば買ってたなあ。
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佐和山城(滋賀県彦根市)

 石田三成の居城として知られる佐和山城。
 彦根城に機能を移し、廃城となりますが、佐和山城の破却は徹底したものだったようで、最高所の本丸の石垣はほぼ残っていません。

 ふつうは夏に山城へいくことはないのです。草が茂って遺構がわかりにくいですし、虫も出ますし、だいたい暑い。
 ただ彦根城からみた佐和山城がすぐ近くに見えたのと、市の教育委員会の方が「30分もあれば登れますよ、道は急ですけど」と親切に登山道への行き方まで教えてくださったので、ついついその気になってしまいました。

 佐和山城の大手は現在の彦根市街の反対側に開かれていました。
 現在の登山道は井伊家の菩提寺である龍潭寺の境内から始まっていますが、これは城の裏手からの道となります。ハイキングコースと称していますが、距離は短いものの、道は狭く険しく、ちょっとした登山です。

 最初にたどり着くのが西の丸の郭。三段に削平された郭が残っています。下段の郭には塩硝櫓の伝承があり、上段の郭の上には空堀様の遺構が残っています。
 しかし尾根沿いに土の郭が連なる雰囲気はほとんど中世山城です。

 西の丸をすぎると本丸跡までガシガシ登ります。下から頂上までの比高は200m程ですし、龍潭寺から本丸まで30分ほどですが、体が山道に慣れる前に着くので、ちょっとしんどい。

 本丸からの景色はまずまず良好で、西側は彦根市街を見下ろせます。
 彦根城も丸見えで、幕末なら佐和山山上に砲台を作れば城内打ち放題なロケーション。もっとも彦根築城の江戸初期は火器といえば火縄銃までの想定だったはず。

 本丸は平らにならされてはいますが、石垣はみごとに撤去され、ここに三重とも五重とも言われる天守があったとは思えません。
 郭の下には角ばった石を2つ積み上げた石垣の残欠のようなものもありますが、これ以外の石をみな撤去してしまったとすると、相当な作業量です。お城の破却は象徴的に石垣の角を崩したりする程度のことが多いのですが、ここは本気で解体撤去されたようです。

 佐和山城は三成の居城でしたが、奉行衆の彼はほぼ伏見や大坂に出ずっぱりで、城には父の石田正継が詰めていたようです。関ヶ原の戦いの後に落城し、その後は井伊直政が入り、やがて井伊家が彦根に城を移したのは前に書いたとおり。
 夏草生い茂る兵どもの夢の跡となったのでした。
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彦根城(滋賀県彦根市)

 彦根城は東海道線の車窓から天守を眺めることができる旅行者には馴染みの深いお城です。
 現存する天守は国宝にも指定されていますが、ちゃんと足を運んだことがありませんでした。
# お城の外郭を通り抜けたことはあります。

 彦根城は市内にぽつんとそびえる丘の上に築かれています。比高50m程度ですから、山城というよりは平山城。
 築城は関ヶ原の戦いの後の1603年からで、1606年にひとまずの工事が完了しています。姫路城とほぼ同時期ですが、迷路のような姫路城に比べると、彦根城は比較的シンプルで、そのかわり要所の守りはしっかり固めたメリハリの効いた縄張りです。

 真っ直ぐな大手道。ふつうなら見通しの聞かない折れ曲がった道にしそうなものですが、この距離の坂を登るだけで体力を奪われます。視界を遮るものがないのは、防御側から狙撃をしやすいということでもあり、地の利のある守備側に有利な点もあります。
 大手道を登りきってクランク状の通路。正面が天秤櫓、往時は右の石垣の上にも櫓門が載っていて枡形になっていました。

 天秤櫓直下の大堀切へ出ます。堀底で四方からの狙撃にさらされながら、右の郭に上がって、橋を渡って天秤櫓を突破しないといけない難所です。ただ巧緻を極めた防御ポイントは、大手側はここ一つに絞ったという印象です。

 天守は三重で小ぶりですが、装飾が多く華やかな印象です。外からは板で覆われて見えませんが、壁には狭間が隠されていて、意外に戦闘的な建物。
 行くまで知らなかったのですが、外壁の補修で工事用の足場が組まれていました。見学者の立場としてはちょっと残念ですが、文化財は後世に伝えることが大切ですから、そのための補修とあらば仕方ありません。

 天守から見える佐和山城(中央手前の丘)。直線距離で1.6kmの近さです。

 搦手側の西の丸三重櫓。
 搦手からの登城路もほとんど一直線で、大堀切で三重櫓と多門櫓の攻撃にさらされる、大手の天秤櫓周辺と似た構えです。

 上り石垣。山腹を区切る石垣が5ヶ所にあります。現存例は他に伊予松山城と淡路島の洲本城。朝鮮出兵の折りに日本が築いた倭城の様式を取り入れたもので、山上と山腹の郭をつないだり、山腹の敵の移動を妨げる意図があります。彦根城のものは山腹の敵の移動を妨げる意味合いが強そうです。下からでないと存在がわかりません。

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2018年06月02日

講演会「登ろう・楽しもう・山城歩き」(兵庫県立考古博物館)

 講師は西股総生氏。
 城郭研究家としてゆるいものから硬いものまで多くの著作があり、時には筆鋒鋭い印象をもっていたのですが、ご本人は雰囲気の柔らかい方でした。

 最近のお城巡りブームや山城の魅力といったライトな話からスタートした講演会ですが、後半は縄張りを理詰めで解き明かすモードに突入。
 なるほどと思ったのは、お城は意外に少ない人数で守っていたこと。大規模な遺構を見ると「さぞかし大きな勢力の築城者だったのだろう」と思いがちだが、大規模な土塁や空堀で攻撃側のポイントを限定することで、むしろ少人数での守備が可能になる。大量の土木工事も時間をかけて備えることができる。というお話。
# 中世城郭は意外に広大なものが多く、パット見、この土塁全体に守備兵を並べると何人必要なのだと思いがちなのです。

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特別展「兵庫山城探訪」(兵庫県立考古博物館)

 兵庫県立考古博物館の特別展「兵庫山城探訪」見学。
 兵庫県下には国指定史跡の城郭が18あるのですが、その中から山城11と県指定史跡の山城1つをピックアップしての特別展。
 
 各城の縄張図や赤色立体地図に合わせて、発掘等で出てきた瓦や陶器などを展示しています。派手さはないのですが、読み取りがいのある内容です。

 最近は「山城」というと中世城郭を指すことが多いのですが、兵庫県下は近世の改修をうけた城が多いのも特徴。
 利神城(佐用町)は姫路城の支城として池田氏が築いたものですし、竹田城(朝来市)や洲本城(洲本市)も織豊期以降の手が入っています。
 そこから時代をさかのぼっていく構成になっているのですが、いずれも個性豊かなお城ばかり。

 学芸員による展示解説にも参加。 パネルや出土品に解説が加わると面白さ10倍増しになります(当社比)。特にどういう観点から国指定史跡になったかというお話がよかったです。
 とにかく喋ってる人の「好き」が伝わってくる語りで、これは聞く側も楽しいです。
 会期中の日曜日13:30〜14:00(最終6/24)。
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2018年05月06日

松山城(愛媛県松山市)

 松山城と名の付く城は全国に数あれど、一般的に松山城といえば伊予松山城を指します。冒頭写真は搦手から見上げた本壇。切込み接ぎの本壇、打込み接ぎの本丸、さらに野面積みの石垣が腰巻きのように取り巻き、三種三容の石垣を眺めることが出来ます。

 関ヶ原の戦い直後の1601年に加藤嘉明によって築城、江戸時代は久松松平家15万石の居城となりました。
 比高100mの山上に本丸があり、山麓に二の丸と三の丸があります。本丸には三重の天守がそびえ、現存十二天守の一つです。ただし江戸後期に火災で焼け、再建されたのは1854年と幕末の只中の「新しい」天守です。

 加藤嘉明は賤ヶ岳の七本槍にも数えられた秀吉恩顧の大名で、秀吉没後は加藤清正や福島正則と共に徳川方に付きました。関ヶ原の戦いの後に20万国で伊予に入封し、松山城を築きます。のち松山城の完成を見ずに会津若松に転封されますが、四国の主邑と奥羽の要地を任されたことからも、有力大名として重んじられていたことが伺えます。
 築城の名手としては加藤清正のほうが名高いのですが、加藤嘉明の手がけた松山城と会津若松城のいずれも堅城です。

 松山城の本丸には山麓からロープウェーとリフトが通じています。比高100mなら、城好きなら歩くところですが、今回は荷物が多かったので、リフトに乗りました。

 山上駅から5分も歩くと本丸一帯の高石垣が広がります。本丸と通称されていますが、大手はいくつもの枡形が重ねられた厳重な作りで、本丸内にも天守曲輪に相当する本壇という区画があり、さらに連立式天守がある三段構えといえる構成になっています。

 本壇のみ有料区画となっています。加藤嘉明時代は五層の天守だったと言われていますが、幕府に遠慮してか地盤の弱さを考慮してか、のちに三層に改められました。五層天守の大きさの天守台に三層の建物ですから、小ぶりながらも幅広で重厚感のある雰囲気を醸し出しています。
 連立式天守はすべてが現存建物だと思っていたのですが、実際は三層の大天守のみが江戸期の建物で、小天守と隅櫓は火災で焼けた後の昭和の再建。

 本壇のみ切込み接ぎの石垣なのが気になって観光ボランティアガイドの方に質問したら、「石垣のことを尋ねてくれるとは嬉しい」とすっかり意気投合して、搦手から本壇を一周し、さらには本壇内の建物まで付きっきりでご案内頂きました。いやあ楽しかったです。

 石垣はほぼ花崗岩ですが、倉庫として使われた大天守の内側のみ凝灰岩。間隙が多く吸湿機能を期待されての採用とのこと。
 再建建物の小天守と南北隅櫓の中は博物館的に城と城主家の歴史をたどる展示室になっています。ただし久松松平家は幕末に朝敵となったことから、「めぼしいものはみんなもっていかれちゃった」のだとか。

 久松松平家は家康の異父弟の家系で、江戸期は松平姓を与えられていました。維新後は明治天皇の命で姓を久松に復しています。現存十二天守のうち、葵の紋の入った瓦が使われているのは松山城だけとのこと。一方で本壇の櫓の一つには久松家の祖先とされる菅原道真公を祀った天神社があり、久松家で使われてきた梅の紋が入っています。

 司馬遼太郎「坂の上の雲」の主人公である秋山兄弟と正岡子規はいずれも松山藩士の出身で、劇中の旧主家は久松の名字で登場します。最初に松平と聞いてピンとこなかったのはそのせいかもしれません。

 山を降りて二の丸を仰ぎます。ふだんは二の丸が城主の住まいとして使われていて、ここも比高10mの高石垣と複雑な虎口に囲まれた厳重な作り。正直、本丸よりも二の丸を見て「ここまでするか」と思いました。

 国内に名城と呼ばれる城は多々あれど、十指に入る一つといってよい城だと思います。

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