2017年05月05日

古河公方館(茨城県古河市)

 茨城県古河市にある古河公方館。

 室町時代、足利将軍家は京に館を構えましたが、鎌倉に分家を置いて関東の支配に当たらせました。
 分家を鎌倉公方といいますが、補佐役の関東管領と対立したり、鎌倉公方と足利将軍家が対立したり、もう最初から最後まですっちゃかめっちゃか。やがて鎌倉公方は古河に居を移して古河公方となります。
# 1455(享徳4)年のことで、この前後の「享徳の乱」が関東戦国の幕開けになります。応仁の乱よりちょっと早めですね。

 古河公方館は現在の古河市街の南東の郊外にあり、主郭の二郭を含めた一帯が古河総合公園となっています。
 遺構が良好に残っているのは主郭部で、二郭との境界の空堀と土塁が残っています。左の写真、通路が空堀の底で、左側に土塁があります。
 主郭は沼地に突き出た半島の突端で、要害ではあるのですが、関八州に君臨する古河公方の館としてはやや手狭な感もあります。

 実際もそうだったのか、古河公方がここに住んでいたのは2年ほどで、後に古河城を築いて移っていきます。古河公方館はその後も古河城と並行して存置されたようで、古河公方が喜連川藩(栃木県さくら市)に移る前の最後の当主はこの館に住んでいました。
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2017年02月15日

尼崎城天守「復元」

 尼崎市で尼崎城の天守を「復元」する計画が進んでいます。というか着工されています。

・「尼崎城の復元着工へ、完成図公表 18年8月完成」(神戸新聞 2016.12.19)
・「来夏完成予定の尼崎城 公園など整備本格化」(神戸新聞 2017.2.10)

 尼崎城は大阪湾に面して築かれた平城ですが、明治以降の開発で、石垣も築港に転用され、遺構はほぼ全て失われました。空中写真を見ると街の区割りがかつての濠や曲輪に沿っている様子が分かりますが、他の痕跡はほとんどありません。
 本丸跡は市立の小中学校と文化財収蔵庫が立ち並ぶ文教地区になり、天守は文化財収蔵庫のあたりにありました。写真中央やや下の小さな赤い四角の部分です。

 今回天守が「復元」されるのは、本来の天守があった場所ではありません。300mほど西側の尼崎城址公園。写真中央やや上の大きめの赤く塗った部分。かつての三の丸跡の一角です。
 城好きの視点から見ると、ちょっと複雑な気分。
# 写真は国土地理院2007年撮影の空中写真を加工しています。

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2016年12月11日

高松城(香川県高松市)

 四国の玄関口、香川県高松市の高松城。瀬戸内海に面した平城で海水を濠に引き入れて軍船の出入りを可能にしている海城でもあります。城主の高松松平家は徳川光圀の兄、松平頼重が藩祖で水戸藩と縁があります。

 現在は周囲を埋め立てられて、主要部の一部が玉藻公園になっています。写真は三の丸南東隅の艮櫓。南東の隅なのに艮(丑寅=北西)とは如何に、ですが、元々は太鼓櫓が建っていた櫓台に別の場所にあった艮櫓を移築したもの。

 奥の一段高い石垣が本丸の天守台。三重四階の四国最大の天守が建っていました。本丸はかつて島のように独立した曲輪でしたが、現在は西側の堀が埋められて地続きになっています。パワーショベルがいるのは南側の濠で、元々は水濠ですが何かの工事が行われているようです。

 大きく写っている櫓台は本丸の地久櫓跡。手前は以前は濠でしたが、現在は鉄道の路線敷となっています。

 現在の高松城は、城の西側と南側を琴電琴平線に囲まれていて、市街側から写真を撮ると必ず架線が写り込んでしまいます。というか電車も写り込んできます。
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2016年10月16日

高取城(奈良県高取町)

 高取城は奈良盆地の南端、吉野に向かって山を分け入った場所にあります。
 大和国が羽柴秀長(秀吉の弟)の領地だった頃に近世城郭として整備され、山上に豪快な石垣が築かれました。
 江戸時代に入った後は植村家が2万5千石の城として幕末を迎えます。

 キトラ古墳壁画見学の後、特に予定は組んでいなかったのですが、壺阪山駅を降りたときにここが高取城の城下であることを知りました。お城までは5kmほどとのことで、これは帰りがけに登っていこうと思い立った次第。相変わらずの行き当たりばったりです。

 5kmなら歩いて一時間ちょいかと思っていたのですが、山の上の城だということをすっかり忘れていました。
 いえ、山城なのを忘れるわけはないのですが、江戸時代を通じて山上の城郭が維持されていたので、登城路は整備されていると思っていたのです。実際は登城路というより、思いっきり登山道でした。

 「七廻り」とか「一升坂」とか登城路ではなく登山道の名前だよなと思いながら急坂を登ります。この上に石垣を組むなんてどうかしてます。
 麓の城下町から1時間。本格的な山道に入ってから30分。ようやくニの門跡に到着。ここから先が城内といってよいエリア。ニの門の脇には水濠があってびっくりします。谷をせき止めてため池状態にしたのでしょうが、ここまで登って水面を見るとは思いませんでした。

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2016年09月10日

足利氏館(栃木県足利市)

 足利氏館は室町幕府を開く足利氏の居館で、一辺200mほどの不等辺四角形を土塁と水濠で囲った方形館です。鎌倉期の武士の居館の面影を残すことから全域が国指定史跡となっています。

 現在は一帯が鑁阿寺(ばんなじ)という寺院になっています。本堂は1299(正安元)年の建立で国宝。
 本堂が建っているのは、もともと邸宅があったであろう居館の敷地の真ん真ん中。建立の時期は鎌倉時代後期なので、邸宅を撤去して寺院を作ったことになります。いったい足利氏はどこに住んでいたのかと思うのですが、北条氏に次ぐ家格の有力御家人でもあり、鎌倉在住の期間が長かったかもしれません。

 四囲の土塁と水濠はよく整備されています。往時の土塁はもっと高く、頂部に塀が設けられていたのだと思います。とはいえ鑁阿寺建立の事情を鑑みるに、かなり早い時期に防衛施設としての役割を終えていたのかもしれません。
 足利学校の周囲の土塁と水濠は足利氏館の外郭というより、一族もしくは有力家臣の別宅だったようにも思えます。
 方形館が今に残る例として、武田氏の躑躅ヶ崎館や茨城県つくば市の小田城がありますが、いずれにせよ戦国末期の改修が入っているので、技巧を凝らしたプランになっています。足利氏館の構成は極めてシンプルです。

 瓦の丸に二つ引は足利家の紋。
 楼門の上には丸に二つ引紋と菊紋と五七桐紋が並んでいます。菊紋と五七桐紋は天皇家から足利家に下賜されたもの。

 足利氏は足利尊氏の代に室町幕府を開いて武家の棟梁の地位に立ちますが、室町幕府の前期は南北朝時代、後半は戦国時代と騒乱の絶えない時代でもありました。
 足利将軍家は15代義昭で絶えますが、関東公方の末裔が石高5000石ながら諸侯格の喜連川氏として下野国喜連川で存続して血脈を伝えました。
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唐沢山城(栃木県佐野市)

 「唐沢山城ですか、そんなに遠くないですよ。車で上まで上がれます」という話を犬伏の薬師堂のボランティアの方にお聞きして、ならばと行ってみました。相変わらずの行き当たりばったりです。
 唐沢山城は関東屈指の山城で、標高274mの唐沢山の頂上付近を要塞化したもの。藤原秀郷による築城の伝説がありますが、15世紀後半より遡る遺構は確認されていないとのこと。

 下野国南部の要衝で後北条氏と上杉氏の境目に位置したため、たびたび両者の合戦の舞台となりました。上杉謙信には10度も攻められ、その都度守りぬいたり降伏したりしているのですが、「あの謙信」をさんざん手こずらせたことで名城として名を挙げます。

 関東には珍しい石垣を多用した縄張りで、これは豊臣政権期に整備されたものとされているようです。城の東半分は昔ながらの土塁と空堀が残り、中世と近世が混在したような城郭です。

 唐沢山城は江戸時代に廃城となり、城主は山麓に気付かれた佐野城に移ります。江戸市街を遠望できるゆえに廃城を迫られたという伝承もありますが、破却されたわけではないので、日常の便を優先しての移転だったのでしょう。
 今でも城内の展望台からは、天気が良ければスカイツリーや新宿新都心の高層ビル群が見えるそうです。この日はちょっと霞がかかっていましたが、眺望の良さが伺える眺めでした。
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2015年12月03日

津城(三重県津市)

 「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ」と唄われた藤堂氏32万石の居城。津はもともと「安濃津」と呼ばれる港がありました。「津」の字は港を表す文字ですが、それが固有名詞として通用するほどの存在感でした。しかし中世の津波で壊滅。江戸時代は伊勢街道の宿場町でした。

 初代の藤堂高虎は築城の名手として名高く、自らの居城だった宇和島城、今治城、津城、津藩支城の伊賀上野城、対豊臣家の天下普請で築かれた丹波篠山城、近江膳所城と多くの城の縄張り(設計)を担当しています。

 内堀と外堀で回字状に設けられた本丸と二の丸からなり、本丸の東西には東の丸・西の丸という名の角馬出が付きます。本丸を囲む内堀は幅広く、また城下町全体も南北両側を川に挟まれて、平城ながら防御力の高い占地。

 現在残っている津城は本丸と西の丸の部分のみ。外堀は消滅、内堀は北側と西側を残して埋め立てられ、幅も狭くなっています。本丸と西の丸の間の堀も埋められて、両者が一体化した状態で公園化しています。

 城の面影を一番良く残すのは本丸北面。東西に三層櫓を載せた石垣は津城一番の見せ場だったでしょう。

 石垣の事例として紹介されることの多い犬走り。石垣のたもとに人が通れる通路を設けたもの。水面ギリギリで、水位が上がると水没してしまいそうです。西の丸のもの。

 左写真は本丸南側の天守台。五層の天守があったとも言われていますが、関ヶ原の戦いの際に西軍に攻められ、焼失。以後は再建されなかったとも、一時は三層の天守が構えられたとの説がありますが、いずれにせよ藤堂時代以降は天守のない城となりました。
 右写真は天守台のすぐ東にある埋門。現在は公園に降りるようになっていますが、当時は水堀直結でした。枡形がなく、敵から丸見えなので、どういう用途を想定したのやら。

 模擬建造物の三層櫓。すぐ側にもともと三層櫓があった櫓台があるのに、接続する多聞櫓の場所に建てたのが謎。このため三層櫓にしては極端に小さい作りになっています。

 左写真は南面の堀。よく見ると中間部分の積み方が違うのが分かります。本丸と西の丸の間を埋めて、庭園にしているのです。もし将来、再整備されることがあったら復旧して欲しいところ。
 右写真は本丸南面の石垣。不整合な積み方になっています。右側部分をいつの時代かに増築したのでしょう。

 本丸四囲の石垣は残っていますが、平城なのに堀が埋められてしまったため、道路から低い石垣が立ち上がっているように見えてしまうのも惜しいところ。
 それでもギリギリの線で本丸を都市化の波から守り切ったというところでしょうか。

 津城は池波正太郎の時代小説『雲霧仁左衛門』に縁のあるお城でもあります。池波正太郎の小説の中では一番好きな作品です。
# 『真田太平記』も好きなので甲乙つけがたい。
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2015年11月14日

江戸城外堀跡の石垣

 夜行バスが早く着いたので、東京駅の周りをブラブラ散歩。
 八重洲北口と中央口の間にあるロータリー脇の植え込みが一ヶ所だけ古びた雰囲気の石垣なのが気になりました。なんで打ち込みハギの石垣なんだ?
 近付いてみると案内板があり、江戸城外堀の石垣とのこと。発掘調査で出てきたものだそうです。
 そういえばこれ、NHK「ブラタモリ」で取り上げていたかも。

 遠目には気にならなかったのですが、近くで見ると石垣が変です。なんか奥行き感がない。
 覗きこんだら、石垣の表面だけ再現した「はりぼて」でした。説明板をよく読むと、石垣の出土地点もここではなく、八重洲南口のバスターミナルのさらに南の辺り。
 ただこの植え込みの場所も外堀の縁ですし、はりぼてにしても城郭ファンの私が遠目に分からないほどに雰囲気を再現しています。遺構を活かした粋な配慮というべきでしょう。
# 石垣の裏込め石まで再現したら費用もかかるし、植物を植えるスペースが無くなるのだと思います。

 朝から面白いものを見ました。
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2015年11月08日

和歌山城(和歌山県和歌山市)

 徳川御三家、紀州徳川家の和歌山城です。
 羽柴秀吉が紀州を平定した際に弟の羽柴秀長に築城させたのが元ですが、江戸時代は紀州徳川家の居城となりました。戦乱が落ち着いてから出来た城郭なので実戦は経験していません。

 和歌山城天守は太平洋戦争の空襲で焼けて戦後に再建されました。三層三階の大天守と二層二階の小天守が並び、多門櫓で2基の二層櫓を連結して天守曲輪を構成しています。「連立式天守」と呼ばれるもので、姫路城と同じ形式。
 姫路城の五層の大天守と比べると小さいように見えますが、実は和歌山城の天守は五層天守を建てられる広さの石垣の上にドテッと三層天守を建てたので、建物全体がデカイのです。近くで見ると遠近感がおかしくなったかと思うくらい。意匠全体は徳川系の雰囲気がにじみ出ています。

 和歌山城の丘の頂上は2つの峰になっていて、一方が天守曲輪、もう一方に本丸御殿が建てられていました。本丸御殿の跡地は現在は水道局の給水場になっています。市街地の真ん中の高台なので給水場の場所としてはこの上ない立地ですが、しかし殿様の住処から運ばれた水を飲んでるのか和歌山市民は。なんか贅沢な気がします。

 和歌山城で面白いのは石垣。城の中心部の天守曲輪をはじめとする丘陵部一帯は、自然石に近い石を積み上げた「野面積み」と呼ばれる技法。
 石垣の角は崩れやすい場所なので、直方体に近い石を選んで丁寧に積んでいます。
 石材は緑泥片岩と呼ばれる岩石で、庭石にもよく使われるもの。産地が限られているので他の城ではあまり見ません。

 この写真では右側が野面積み、左側が「打ち込みハギ」と呼ばれる技法です。比べてみると一目瞭然。
 昔からある野面積みの石垣に後から打ち込みハギの石垣を継ぎ足した場所で、年代的にも打ち込みハギの方が新しい技法です。ここでは低い石垣ですが、より高くより急勾配の石垣を組めるので、近世城郭の石垣に多用されています。

 もう一つが「切り込みハギ」。石材をきっちり加工して大きな石をピッタリ隙間なく積み上げています。
 加工の手間がかかるので、和歌山城では門の周辺など「見栄え重視」の場所に採用されています。

 これだけ分かりやすいサンプルが並んでいる石垣はなかなか楽しいです。
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2015年10月25日

茨木城(大阪府茨木市)

 茨木城は茨木市街の中心部にありました。大坂夏の陣後に廃城となり、平城で跡地が市街化したため、目に見える縄張りの遺構はありません。
 現在の茨木市立茨木小学校の付近が本丸跡で、大和郡山市の慈光院に移築された旧城門を復元した櫓門があります。城郭の櫓門にしては二階部分が小さい気もするのですが、古い時代だとこんなものかも。

 もう一つ、近くの茨木神社に搦手門の高麗門が移築されています。こちらも見学したのですが、城門の移築とは知らずに遠目に見ただけで写真を撮っていませんでした。神社の門にしては変わってるなとは思ったのですが……

 茨木城主で知られているのは中川清秀と片桐且元。
 中川清秀は高山右近のいとこで、荒木村重の反乱に与しますが早々に織田方に降伏します。大河ドラマ「軍師官兵衛」では村重に謀反をそそのかしながら自分はさっさと降参してしまう非道い人に描かれていましたが、どうなんでしょう。本能寺の変後は秀吉の傘下に入りますが、賤ヶ岳の合戦で柴田方の佐久間盛政の猛攻を受けて奮戦するも討ち死に。子孫は豊後岡藩で明治維新まで家を保ちます。

 片桐且元は「賤ヶ岳七本槍」の一人で豊臣秀頼の側近でした。徳川方とのつなぎ役となりますが、豊臣方から家康への内通を疑われて大坂城を辞去。
 のち一国一城令によって、摂津国は高槻城を残し(大坂城は別格)茨木城は廃城となりました。

 「茨木」は「いばらき」と読みます。茨城県の「茨城」も「いばらき」で読み方は同じ。「いばら」の方が茨城県というのは俗説です。になるのはなまってるだけですから。かくいう茨城県出身の私も「いばら」だと思ってましたから。
 ちなみにこちらで出身地を聞かれた時は「関東の茨城」と言うようにしています。「いばらきです」と言うと「大阪ですか?」と問い返されることが度々ありました。
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