2018年06月03日

長浜城(滋賀県長浜市)

 羽柴秀吉は信長の浅井氏攻めで手柄を立て、浅井氏の旧領を拝領します。その際に領国経営の拠点として築いたのが長浜城です。
 浅井氏の小谷城は堅固ではあるのですが、山上で交通の便は悪く、秀吉は琵琶湖に面した地に新城を築き、城下町も小谷から移したのでした。

 本能寺の変まで秀吉の居城で、賤ヶ岳の戦いの後は山内一豊が長浜城主となります。最終的には大坂の陣の後に廃城となり、資材は彦根築城に転用されました。元は湖城といってよい平城だったので、きれいさっぱり撤去されてしまったようです。知名度は高いのですが、わずか40年ほどしか存在しないお城でした。

 その後の調査で湖底の石垣が発掘されたりしたそうですが、現在は碑があるのみで石垣そのものを見ることは出来ません。豊公園として整備された一帯が城郭の主要部だとして昔を偲ぶのが良さそうです。
# 城門が城下に移築されて残っているそうですが、こちらは足を運ばすじまいでした。

 現在建つ天守は1983年に作られた模擬天守で、内部は長浜城歴史博物館になっています。
 当時の図面はもちろん、天守の外観を描いた絵も残っていないので、天守の形は完全に想像によるもの。犬山城などを参考にしたそうですが、時期的に望楼型の天守はそれなりに雰囲気が出ていると思います。
# ファセットのペーパークラフトが売店で売っていて、これが値段の割によい出来でした。置き場所さえ確保できれば買ってたなあ。
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佐和山城(滋賀県彦根市)

 石田三成の居城として知られる佐和山城。
 彦根城に機能を移し、廃城となりますが、佐和山城の破却は徹底したものだったようで、最高所の本丸の石垣はほぼ残っていません。

 ふつうは夏に山城へいくことはないのです。草が茂って遺構がわかりにくいですし、虫も出ますし、だいたい暑い。
 ただ彦根城からみた佐和山城がすぐ近くに見えたのと、市の教育委員会の方が「30分もあれば登れますよ、道は急ですけど」と親切に登山道への行き方まで教えてくださったので、ついついその気になってしまいました。

 佐和山城の大手は現在の彦根市街の反対側に開かれていました。
 現在の登山道は井伊家の菩提寺である龍潭寺の境内から始まっていますが、これは城の裏手からの道となります。ハイキングコースと称していますが、距離は短いものの、道は狭く険しく、ちょっとした登山です。

 最初にたどり着くのが西の丸の郭。三段に削平された郭が残っています。下段の郭には塩硝櫓の伝承があり、上段の郭の上には空堀様の遺構が残っています。
 しかし尾根沿いに土の郭が連なる雰囲気はほとんど中世山城です。

 西の丸をすぎると本丸跡までガシガシ登ります。下から頂上までの比高は200m程ですし、龍潭寺から本丸まで30分ほどですが、体が山道に慣れる前に着くので、ちょっとしんどい。

 本丸からの景色はまずまず良好で、西側は彦根市街を見下ろせます。
 彦根城も丸見えで、幕末なら佐和山山上に砲台を作れば城内打ち放題なロケーション。もっとも彦根築城の江戸初期は火器といえば火縄銃までの想定だったはず。

 本丸は平らにならされてはいますが、石垣はみごとに撤去され、ここに三重とも五重とも言われる天守があったとは思えません。
 郭の下には角ばった石を2つ積み上げた石垣の残欠のようなものもありますが、これ以外の石をみな撤去してしまったとすると、相当な作業量です。お城の破却は象徴的に石垣の角を崩したりする程度のことが多いのですが、ここは本気で解体撤去されたようです。

 佐和山城は三成の居城でしたが、奉行衆の彼はほぼ伏見や大坂に出ずっぱりで、城には父の石田正継が詰めていたようです。関ヶ原の戦いの後に落城し、その後は井伊直政が入り、やがて井伊家が彦根に城を移したのは前に書いたとおり。
 夏草生い茂る兵どもの夢の跡となったのでした。
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彦根城(滋賀県彦根市)

 彦根城は東海道線の車窓から天守を眺めることができる旅行者には馴染みの深いお城です。
 現存する天守は国宝にも指定されていますが、ちゃんと足を運んだことがありませんでした。
# お城の外郭を通り抜けたことはあります。

 彦根城は市内にぽつんとそびえる丘の上に築かれています。比高50m程度ですから、山城というよりは平山城。
 築城は関ヶ原の戦いの後の1603年からで、1606年にひとまずの工事が完了しています。姫路城とほぼ同時期ですが、迷路のような姫路城に比べると、彦根城は比較的シンプルで、そのかわり要所の守りはしっかり固めたメリハリの効いた縄張りです。

 真っ直ぐな大手道。ふつうなら見通しの聞かない折れ曲がった道にしそうなものですが、この距離の坂を登るだけで体力を奪われます。視界を遮るものがないのは、防御側から狙撃をしやすいということでもあり、地の利のある守備側に有利な点もあります。
 大手道を登りきってクランク状の通路。正面が天秤櫓、往時は右の石垣の上にも櫓門が載っていて枡形になっていました。

 天秤櫓直下の大堀切へ出ます。堀底で四方からの狙撃にさらされながら、右の郭に上がって、橋を渡って天秤櫓を突破しないといけない難所です。ただ巧緻を極めた防御ポイントは、大手側はここ一つに絞ったという印象です。

 天守は三重で小ぶりですが、装飾が多く華やかな印象です。外からは板で覆われて見えませんが、壁には狭間が隠されていて、意外に戦闘的な建物。
 行くまで知らなかったのですが、外壁の補修で工事用の足場が組まれていました。見学者の立場としてはちょっと残念ですが、文化財は後世に伝えることが大切ですから、そのための補修とあらば仕方ありません。

 天守から見える佐和山城(中央手前の丘)。直線距離で1.6kmの近さです。

 搦手側の西の丸三重櫓。
 搦手からの登城路もほとんど一直線で、大堀切で三重櫓と多門櫓の攻撃にさらされる、大手の天秤櫓周辺と似た構えです。

 上り石垣。山腹を区切る石垣が5ヶ所にあります。現存例は他に伊予松山城と淡路島の洲本城。朝鮮出兵の折りに日本が築いた倭城の様式を取り入れたもので、山上と山腹の郭をつないだり、山腹の敵の移動を妨げる意図があります。彦根城のものは山腹の敵の移動を妨げる意味合いが強そうです。下からでないと存在がわかりません。

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2018年06月02日

講演会「登ろう・楽しもう・山城歩き」(兵庫県立考古博物館)

 講師は西股総生氏。
 城郭研究家としてゆるいものから硬いものまで多くの著作があり、時には筆鋒鋭い印象をもっていたのですが、ご本人は雰囲気の柔らかい方でした。

 最近のお城巡りブームや山城の魅力といったライトな話からスタートした講演会ですが、後半は縄張りを理詰めで解き明かすモードに突入。
 なるほどと思ったのは、お城は意外に少ない人数で守っていたこと。大規模な遺構を見ると「さぞかし大きな勢力の築城者だったのだろう」と思いがちだが、大規模な土塁や空堀で攻撃側のポイントを限定することで、むしろ少人数での守備が可能になる。大量の土木工事も時間をかけて備えることができる。というお話。
# 中世城郭は意外に広大なものが多く、パット見、この土塁全体に守備兵を並べると何人必要なのだと思いがちなのです。

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特別展「兵庫山城探訪」(兵庫県立考古博物館)

 兵庫県立考古博物館の特別展「兵庫山城探訪」見学。
 兵庫県下には国指定史跡の城郭が18あるのですが、その中から山城11と県指定史跡の山城1つをピックアップしての特別展。
 
 各城の縄張図や赤色立体地図に合わせて、発掘等で出てきた瓦や陶器などを展示しています。派手さはないのですが、読み取りがいのある内容です。

 最近は「山城」というと中世城郭を指すことが多いのですが、兵庫県下は近世の改修をうけた城が多いのも特徴。
 利神城(佐用町)は姫路城の支城として池田氏が築いたものですし、竹田城(朝来市)や洲本城(洲本市)も織豊期以降の手が入っています。
 そこから時代をさかのぼっていく構成になっているのですが、いずれも個性豊かなお城ばかり。

 学芸員による展示解説にも参加。 パネルや出土品に解説が加わると面白さ10倍増しになります(当社比)。特にどういう観点から国指定史跡になったかというお話がよかったです。
 とにかく喋ってる人の「好き」が伝わってくる語りで、これは聞く側も楽しいです。
 会期中の日曜日13:30〜14:00(最終6/24)。
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2018年05月06日

松山城(愛媛県松山市)

 松山城と名の付く城は全国に数あれど、一般的に松山城といえば伊予松山城を指します。冒頭写真は搦手から見上げた本壇。切込み接ぎの本壇、打込み接ぎの本丸、さらに野面積みの石垣が腰巻きのように取り巻き、三種三容の石垣を眺めることが出来ます。

 関ヶ原の戦い直後の1601年に加藤嘉明によって築城、江戸時代は久松松平家15万石の居城となりました。
 比高100mの山上に本丸があり、山麓に二の丸と三の丸があります。本丸には三重の天守がそびえ、現存十二天守の一つです。ただし江戸後期に火災で焼け、再建されたのは1854年と幕末の只中の「新しい」天守です。

 加藤嘉明は賤ヶ岳の七本槍にも数えられた秀吉恩顧の大名で、秀吉没後は加藤清正や福島正則と共に徳川方に付きました。関ヶ原の戦いの後に20万国で伊予に入封し、松山城を築きます。のち松山城の完成を見ずに会津若松に転封されますが、四国の主邑と奥羽の要地を任されたことからも、有力大名として重んじられていたことが伺えます。
 築城の名手としては加藤清正のほうが名高いのですが、加藤嘉明の手がけた松山城と会津若松城のいずれも堅城です。

 松山城の本丸には山麓からロープウェーとリフトが通じています。比高100mなら、城好きなら歩くところですが、今回は荷物が多かったので、リフトに乗りました。

 山上駅から5分も歩くと本丸一帯の高石垣が広がります。本丸と通称されていますが、大手はいくつもの枡形が重ねられた厳重な作りで、本丸内にも天守曲輪に相当する本壇という区画があり、さらに連立式天守がある三段構えといえる構成になっています。

 本壇のみ有料区画となっています。加藤嘉明時代は五層の天守だったと言われていますが、幕府に遠慮してか地盤の弱さを考慮してか、のちに三層に改められました。五層天守の大きさの天守台に三層の建物ですから、小ぶりながらも幅広で重厚感のある雰囲気を醸し出しています。
 連立式天守はすべてが現存建物だと思っていたのですが、実際は三層の大天守のみが江戸期の建物で、小天守と隅櫓は火災で焼けた後の昭和の再建。

 本壇のみ切込み接ぎの石垣なのが気になって観光ボランティアガイドの方に質問したら、「石垣のことを尋ねてくれるとは嬉しい」とすっかり意気投合して、搦手から本壇を一周し、さらには本壇内の建物まで付きっきりでご案内頂きました。いやあ楽しかったです。

 石垣はほぼ花崗岩ですが、倉庫として使われた大天守の内側のみ凝灰岩。間隙が多く吸湿機能を期待されての採用とのこと。
 再建建物の小天守と南北隅櫓の中は博物館的に城と城主家の歴史をたどる展示室になっています。ただし久松松平家は幕末に朝敵となったことから、「めぼしいものはみんなもっていかれちゃった」のだとか。

 久松松平家は家康の異父弟の家系で、江戸期は松平姓を与えられていました。維新後は明治天皇の命で姓を久松に復しています。現存十二天守のうち、葵の紋の入った瓦が使われているのは松山城だけとのこと。一方で本壇の櫓の一つには久松家の祖先とされる菅原道真公を祀った天神社があり、久松家で使われてきた梅の紋が入っています。

 司馬遼太郎「坂の上の雲」の主人公である秋山兄弟と正岡子規はいずれも松山藩士の出身で、劇中の旧主家は久松の名字で登場します。最初に松平と聞いてピンとこなかったのはそのせいかもしれません。

 山を降りて二の丸を仰ぎます。ふだんは二の丸が城主の住まいとして使われていて、ここも比高10mの高石垣と複雑な虎口に囲まれた厳重な作り。正直、本丸よりも二の丸を見て「ここまでするか」と思いました。

 国内に名城と呼ばれる城は多々あれど、十指に入る一つといってよい城だと思います。

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湯築城(愛媛県松山市)

 道後温泉のすぐ近くにある道後公園が湯築城跡です。源平合戦時に源氏に着いて勢力を得た河野氏が、南北朝時代に築城し、戦国末まで使われました。
 比高30mほどの丘陵を二重の水堀で囲み、内堀に囲まれた丘陵部には少なくとも2つの曲輪が置かれ、外堀に囲まれた平坦部の区画は家臣団の屋敷がありました。

 以前は敷地全体が都市公園として整備されていましたが、公園の南部一帯で発掘調査が行われ、その成果に基づいて南部一帯は復元区域として遺構の整備や建物の復元が行われています。
 外観を武家屋敷風にした無料の資料館もあり、中には湯築城の復元模型や、発掘調査の出土品が展示されています。猫の足跡の着いた小皿など可愛らしい品物も。

 丘陵部は目立った遺構はなく、丘の稜線に沿って2つの平坦地があり、これが曲輪の跡です。
 細かく観察すれば小さな曲輪などの遺構があるかもしれませんが、公園として整備されたときに遊歩道など手が加えられているため、少し見ただけではなんとも分かりません。

 南北朝時代に伊予国の守護となった河野氏ですが、その後は一族内での内紛が絶えず、戦国末には毛利氏に従属するような立場になります。最終的には秀吉の四国出兵(1585年)の際に進退が定まらず、小早川隆景に城を囲まれ、開城して退去。戦国大名河野氏は滅亡します。
# 一遍上人は河野氏の出とのこと。知らなんだ。

 その後、1587年に福島正則が湯築城に入りますが、程なく今治の国分山城に移り、湯築城は廃城となりました。
 伊予松山城が築かれるのは関ヶ原の戦いの後のこととなります。

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2018年05月05日

今治城(愛媛県今治市)

 築城の名手、藤堂高虎が築いた水城として名高いのが今治城で、現在は内堀に囲まれた部分だけが残っています。

 以前、しまなみ海道の開通直後に自転車で来たことがあるのですが、その時は壕の外から天守を眺めただけ。主郭部まで入ったのは今回が初めてです(たぶん……いや、入ったかなあ……でも記憶に無いんだよなあ)。

 瀬戸内海に近い場所で、堀の水は現在も海水が引かれているそうです。堀際に犬走りがあるのは同じく藤堂高虎築城の津城と共通。高虎の築いた城郭は他に宇和島城や伊賀上野城がありますが、一見しただけではそれほど堅固に見えないのが面白いところ。同じく築城名手で知られる加藤清正の熊本城など、見ただけで「うへぇ」となる壮大さなのですけど、高虎の城は説明を聞いてなるほどという玄人好みな印象。
 今治城は海から直接、船が城に着く海城としての縄張りが評価されたのかもしれません。

 五層の天守がありますが、これは戦後に建てられた模擬天守。今治城には天守台の遺構はなく、一次資料も少ないために、築城当時の天守の存否は意見が分かれています。
 その他の建物もいずれも再建。広めの堀に櫓が映えて、いかにも近世の平城といった景観です。

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2018年03月04日

首里城 その3(沖縄県那覇市)

 うねうねと曲がりくねった首里城の城壁。堀がなくて石造の壁が続くのが日本の城と違うところで、むしろ中国風です。

 正殿の奥、御内原と呼ばれる区画は王族が暮らした場所。王族以外は男子禁制で、大奥に相当する区域です。首里城復元の総仕上げとして現在工事中。

 御内原を内郭城壁の外から見たところ。
 入り口から奥まった場所で、人影もまばらです。最近修復したのか、全く色合いの違う城壁がありました。あとで空中写真を見たら元は工事用の道路が通っていた場所のようです。再建工事が進むに連れて道路を撤去して城壁を再築したのでしょう。

 現在立ち入れる最も奥の場所。
 内郭城壁の下に横穴が3つ。解説板があったのですが、内容は忘れてしまいました(しまった!)。

 琉球王国は現在の沖縄県に奄美群島をあわせたほどの版図で、国の規模は小さなものです(ただし島の点在する範囲は広大なので陸地の面積の大小では比較しにくい面もあります)。海に生きる人々の国ともいえ、江戸時代の石高で換算するのは難しいのですが、なんとなく国持大名ほどの経済力だったのだろうと思います。
 沖縄は台風の常習地帯でもあり、城壁はともかく、木造の建造物は維持管理が大変だったろうなと思います。

 明治以降に琉球王国が廃されてからは急速に荒れ、昭和の初めまでに撤去された建造物も多々あります。一方で正殿などは保存運動が起きて修復工事も行われたのですが、沖縄戦で全て灰燼に帰しました。
 戦後は琉球大学のキャンパスが置かれたことで破壊された遺構もあり、受難に次ぐ受難を重ねた城郭ではあるのですが、古写真や発掘調査に基づいた復元が進められているのは、前向きに評価してよいものと思います。

 首里城の有料区画は当日再入場が可能なので、周囲の内郭・外郭含めて3周ほど歩いたのですが、全てのエリアの見学には至らず、またいずれ、御内原の再建が完了した折にでも足を運んでみたいと思います。
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首里城 その2(沖縄県那覇市)

 首里城の中核は「御庭」と呼ばれる空間です。
 東の正面に正殿、向かって左に北殿、向かって右に南殿、西に奉神門。いずれも沖縄戦で壊滅した後、1990年代に再建。
# ここからは入館料が必要な有料区域。

 正殿は図面が残っていたこともあり、内部まで正確な復元がなされています。二層の屋根がありますが3階建て。1階と2階が政務や儀式に使う場所で、それぞれに玉座があります。3階は風通しのための屋根裏部屋(非公開)。
 真っ赤に塗られた壁面に赤瓦。飾り立てられた唐破風と、他に例のない雰囲気の建物です。

 1階の玉座。一段高い畳敷きになっています。
 1階の屋根は梁がむき出しになっているのですが、玉座の部分だけ天井が張られています。国王が政務を行っていたのが正殿の1階。

 2階の玉座は椅子が置かれています。残されている琉球国王の肖像画に描かれた玉座を参考に復元されたもの。背後の扁額は中国・清の皇帝から贈られたもの。沖縄戦で失われましたが、本人の筆跡や落款から文字を再現して復元しています。

 2階にはもう一つ王の座る椅子があります。椅子の前の扉を開けると正殿の前の御庭を見下ろせる位置で、国王が儀式に臨席する際に用いられました。
 外から見ると唐破風の正面に当たる場所。

 正殿2階から見下ろした御庭。
 赤いタイルが縞模様に敷かれた鮮やかな意匠。周りの建物が赤く塗られてるので、現地に立ってみるとさほど派手な印象はないのですが、空中写真で見ると目がチカチカするような賑やかさです。
 門に続く赤い道は浮道と呼ばれ、国王や中国からの冊封使のみが通ることを許された道でした。もともとは少しかさ上げしてあったそうですが、現在はバリアフリー対応なのか真っ平らになっています(北殿にある展示模型では一段高く作ってあります)。


 南殿と北殿はなぜか一枚も全景の写真を撮っていませんでした。
 左写真の奥の建物が南殿。御庭の周囲では南殿に連なる建物が白木の建造物です。日本風ということで日本に関係する儀式が行われたとか。
 右写真の右の建物が北殿。こちらは真っ赤に塗られており、役人が仕事をしていた建物。
 南殿・北殿は鉄筋コンクリート造で外観のみ木造復元。南殿は資料展示室、北殿は資料展示と売店となっています。おそらく外観の古写真は残っていたものの、内部の間取りの資料は復元するには足らなかったのかもしれません。近代建築なので空調やバリアフリー対応の設備は設置できるため、展示施設として活用するのは外観復元の建物の用途としては妥当なところだと思います。

 南殿に続く書院・鎖之間は木造で復元されています。
 正殿が儀式の場ならこちらは日常政務と接待の場所。基本的には日本風の造りなのですが、なんだろう微妙な雰囲気の違いは。
 釘隠しに金色の金具が使われているのが王族用、黒色の釘隠しだと家臣の使う部屋だとか。

 琉球石灰岩を活かした庭園。書院・鎖之間とともに国の名勝に指定。この庭園は戦前の写真が残っていたために復元されています。
 庭に敷かれている小石はよく見るとサンゴだったりします。

 同じ庭でも史料が残っていない箇所はただ芝生が張られた状態になっています。また建物があった場所でも形状がわからない部分は再建せずに石などで区画のみ示しています。
 真摯に再現に取り組んでいることを感じさせられます。

 

 有料区画では首里城公園のスタッフによる無料ガイドツアーが一日6回開催されています。今回はたまたま9時の回に間に合うタイミングだったので参加。
 これが素晴らしい内容で、一人で廻ったのなら見過ごしてしまうようなポイントをたくさん案内して頂きました。一回のツアーが50分間ですが、普通にさくさく廻っても30分はかかるコースなので、解説付きで50分だとむしろ短く感じるくらいです。ぜひぜひおすすめ。
posted by ふくだ at 23:46| Comment(0) | お城