国吉城は若狭と越前の国境の城で、戦国時代には若狭武田氏と越前朝倉氏の攻防の最前線でした。朝倉氏は何度も国吉城に挑みますが、その度に籠城戦を戦い抜き、ついに落ちなかった堅城です。
今回の旅行では予定に入れてなかったのですが、たまたま「若狭国吉城歴史資料館 ナイトミュージアム」のチラシを見かけて、これは行かねばならないと足を運んだのでした。
三笠五湖を周遊するゴコイチバスで「若狭国吉城口」というバス停があるので、ここで降りたらすぐかと思ったのですが、あくまで「口」です。バス停から資料館まで750m、たっぷり10分以上歩きました。昼間ならどうということはないのですが、知らない場所での夜道はちょっと大変。
ついでながら私が降りたバスが終バスだったので、運転手さんに「この後のバスはないけど大丈夫?」と心配のお声がけも頂きました。帰路は資料館から美浜駅まで3km40分を歩かねばならないのです。途中から国道を歩くので迷う心配は無いのですが、お城がぶら下がってなければ知らない夜道を3kmも歩こうとは思わないなあ。
そもそも何ゆえ夜間開館なのか不思議だったのですが、この資料館が江戸時代の庄屋宅を移築整備したもので、庭木の紅葉がとても綺麗なのです。
私が着いたときは片手で数えるほどの人しかいなかったのですが、帰路につく頃にはそれなりの方が登ってこられていて、なるほど納得したものです。
資料館は国吉城の解説パネルと立体模型、とくに立体模型は周辺の付け城の赤色立体地図の模型もあり、見ているだけで楽しくなります(写真は国吉城のもののみ)。
30分もあれば登れるそうなので、明日の朝早起きしてみるかとも考えたのですが、冷静に考えて麓まで往復80分に城の上まで往復60分、山上の曲輪を散策しだしたら3時間では足りなくてちょっと難しそう。
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2025年11月22日
若狭国吉城歴史資料館(福井県美浜町)
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2025年10月12日
苗木城(岐阜県中津川市)
苗木城は木曽川に望む山上にあり、苗木遠山氏の居城でした。
遠山氏は江戸時代を通じて1万石の大名。一般的には3万石くらいの領地がないと城より格下の陣屋になることが多いのですが、遠山氏は紆余曲折はあるにせよ戦国期からの領地を保ったせいか、城主大名の座を維持しました。
苗木城は大永年中(1521から1528年)に遠山氏によって築かれたと伝えられます。
美濃国の最東端と言ってよい場所で、江戸時代の中山道でいえば美濃・信濃の国境の馬篭峠のすぐ西側になります。武田勝頼に攻められ、織田方に奪還され、信長死後は秀吉配下の森長可に攻められ、遠山氏は徳川氏を頼って苗木から落ち延びます。時は流れて関ヶ原の戦いの折り、遠山氏は家康の命で東美濃を攻略し、この功で戦国以来の旧領に復帰。現在の苗木城はこの際に整備されたものと思われます(推測)。
歴史の表舞台には出てこない城ながら、広く知られるようになったのは最近のこと。岩山の巨岩を取り込んだ石垣がかっこいいということで、注目を浴びるようになったのです。2017年に日本城郭協会の「続日本100名城」に選定され、私が知ったのは2018年に放送されたNHK「日本最強の城スペシャル」の放映でした。
城のふもとにある苗木遠山資料館。苗木城主だった遠山家の史料を中心に地域の歴史を紹介しています。苗木城そのものの展示より、遠山氏の史料が多いのですが、これが文書も品物も多く残されていて見応えがあります。歴史が分かって城跡を見ると面白さ倍増なので苗木城と合わせての見学をおすすめ。
屋内には搦手口に当たる風吹門が展示されていて、明治後に寺に移築されていたものを資料館に持ってきたもの。苗木城の建物で唯一の遺構です。
苗木城の模型はカッコよすぎではないかと思ったのですが、現地の石垣と史料館の絵図を見るとあれで合ってそう。10月とはいえほとんど夏の気候が続いてきましたから、現地の岩肌も草に覆われていて、それを(心の目で)除けるとだいたいこの通りになりそうです。
とにかく平らな場所がないので、通路に沿うように細い建物を建てたり、時には石垣や崖からはみ出す懸崖造りの建物にしたり、ただ白壁・瓦葺きにするまでの余裕はなかったようで、近世城郭の石垣に中世城郭のような建物が建ち並ぶ山城になっています。
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遠山氏は江戸時代を通じて1万石の大名。一般的には3万石くらいの領地がないと城より格下の陣屋になることが多いのですが、遠山氏は紆余曲折はあるにせよ戦国期からの領地を保ったせいか、城主大名の座を維持しました。
苗木城は大永年中(1521から1528年)に遠山氏によって築かれたと伝えられます。
美濃国の最東端と言ってよい場所で、江戸時代の中山道でいえば美濃・信濃の国境の馬篭峠のすぐ西側になります。武田勝頼に攻められ、織田方に奪還され、信長死後は秀吉配下の森長可に攻められ、遠山氏は徳川氏を頼って苗木から落ち延びます。時は流れて関ヶ原の戦いの折り、遠山氏は家康の命で東美濃を攻略し、この功で戦国以来の旧領に復帰。現在の苗木城はこの際に整備されたものと思われます(推測)。
歴史の表舞台には出てこない城ながら、広く知られるようになったのは最近のこと。岩山の巨岩を取り込んだ石垣がかっこいいということで、注目を浴びるようになったのです。2017年に日本城郭協会の「続日本100名城」に選定され、私が知ったのは2018年に放送されたNHK「日本最強の城スペシャル」の放映でした。
城のふもとにある苗木遠山資料館。苗木城主だった遠山家の史料を中心に地域の歴史を紹介しています。苗木城そのものの展示より、遠山氏の史料が多いのですが、これが文書も品物も多く残されていて見応えがあります。歴史が分かって城跡を見ると面白さ倍増なので苗木城と合わせての見学をおすすめ。
屋内には搦手口に当たる風吹門が展示されていて、明治後に寺に移築されていたものを資料館に持ってきたもの。苗木城の建物で唯一の遺構です。
苗木城の模型はカッコよすぎではないかと思ったのですが、現地の石垣と史料館の絵図を見るとあれで合ってそう。10月とはいえほとんど夏の気候が続いてきましたから、現地の岩肌も草に覆われていて、それを(心の目で)除けるとだいたいこの通りになりそうです。
とにかく平らな場所がないので、通路に沿うように細い建物を建てたり、時には石垣や崖からはみ出す懸崖造りの建物にしたり、ただ白壁・瓦葺きにするまでの余裕はなかったようで、近世城郭の石垣に中世城郭のような建物が建ち並ぶ山城になっています。
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2025年08月10日
飯田城(長野県飯田市)
飯田市立美術博物館への行き方を調べていて、この施設の場所は城跡ではないかと思いました。舌状台地の突端という地形がいかにも城ですし、周囲の地名を見ると、追手町とか水の手町とか馬場町とか、地名がいかにもお城まわり。詳しく調べるまでもなくお城確定です。
伊那谷は戦国時代後期はだいたい武田氏の勢力下にありました。武田滅亡後は織田・徳川麾下の武将がコロコロと入れ替わり、関ヶ原の時点では小笠原氏が入っていました。松本盆地にいて武田信玄に追い出された小笠原氏は徳川に身を寄せていたのです。関ヶ原の戦いの後に小笠原氏は旧領の松本に戻ることになります。
小笠原氏の当時の当主の小笠原秀政と長男の忠脩は大坂夏の陣で揃って討ち死にしていまい、次男の小笠原忠政が明石へ移るのですが、それはまた後の話。明石城と松本城に加えて飯田城まで小笠原氏つながりとは知りませんでした。
写真は南側からの飯田城遠望。尾根の上の一帯が城跡になります。両脇に切り込んだ谷からの比高が約50mあり、要害の地です。台地側から何本もの空堀で尾根を仕切って防御しています。
建物が素敵な追手町小学校。見た目でデパートか何かの建物かと思いました。1929年の建築で国指定の登録有形文化財。飯田城の出丸の敷地に建てられています。
飯田市美術博物館のあるのが二の丸跡。当時は重臣の屋敷が置かれていたそうです。
美術博物館を整備する際に調査を行い、敷地内にある遺構はそれと分かるように表示されています。水路や井戸といった施設で、水路は二の丸を縦貫する道路沿いに敷かれていました。
飯田城は舌状台地の先端にあるため、三の丸より二の丸が、二の丸より本丸が低い構造になっています。
飯田城は攻めにくい地形こそ残っているのですが、城そのものは明治後に破却されて、分かりやすい遺構はあまり残っていません。
現存する最大の遺構は本丸の空堀で、北側は埋められていますが、南側は残っています。美術博物館から東へ架けられている橋の下が空堀で、幅は15m、深さも10mはあろうかという大規模なもの。橋そのものは後世に架けられたもので、当時は土橋で二の丸とつながっていました。
橋の胸壁がコンクリート製なので、脇を見ないで歩いてしまうと両脇が堀ということに気付かずに通り過ぎてしまうかもしれません。
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小笠原氏の当時の当主の小笠原秀政と長男の忠脩は大坂夏の陣で揃って討ち死にしていまい、次男の小笠原忠政が明石へ移るのですが、それはまた後の話。明石城と松本城に加えて飯田城まで小笠原氏つながりとは知りませんでした。
写真は南側からの飯田城遠望。尾根の上の一帯が城跡になります。両脇に切り込んだ谷からの比高が約50mあり、要害の地です。台地側から何本もの空堀で尾根を仕切って防御しています。
建物が素敵な追手町小学校。見た目でデパートか何かの建物かと思いました。1929年の建築で国指定の登録有形文化財。飯田城の出丸の敷地に建てられています。
飯田市美術博物館のあるのが二の丸跡。当時は重臣の屋敷が置かれていたそうです。
美術博物館を整備する際に調査を行い、敷地内にある遺構はそれと分かるように表示されています。水路や井戸といった施設で、水路は二の丸を縦貫する道路沿いに敷かれていました。
飯田城は舌状台地の先端にあるため、三の丸より二の丸が、二の丸より本丸が低い構造になっています。
飯田城は攻めにくい地形こそ残っているのですが、城そのものは明治後に破却されて、分かりやすい遺構はあまり残っていません。
現存する最大の遺構は本丸の空堀で、北側は埋められていますが、南側は残っています。美術博物館から東へ架けられている橋の下が空堀で、幅は15m、深さも10mはあろうかという大規模なもの。橋そのものは後世に架けられたもので、当時は土橋で二の丸とつながっていました。
橋の胸壁がコンクリート製なので、脇を見ないで歩いてしまうと両脇が堀ということに気付かずに通り過ぎてしまうかもしれません。
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春日城(長野県伊那市)
伊那文化会館へ向かう途中に地図アプリで地形データを見ていたら、文化会館に隣接する春日公園が、舌状台地を堀で区切ったいかにも城跡という地形でした。
「これは!」と期待しながら行ってみると、城跡ごと公園として整備されていて、空堀と土塁がよく残る中世城郭でした。本丸を囲む堀と、二の丸と三の丸を区切る堀が良好に残っています。
解説では高遠城の出城で、織田信長の甲州攻めの折りに落城したとのこと。推測ですが、当時もし武田方がこの城を使っていたとしても、とても織田勢の大軍に抗せるものではないので、兵を引き上げていたかもしれません(あくまで推測)。いずれにせよ中世で役割を終えた城です。
公園の遊具がお城をイメージした意匠になっているのがかわいい。
大きなアンテナがあって、規模からしてAM局のラジオの送信所みたいだなと思ったのですが(時間がなかったので近くまでは寄れませんでした)、あとで検索したらNHK長野放送局の伊那ラジオ送信所とのことでした。
かつては狼煙を上げていたであろうお城の跡が、今は電波の送信所になっているのに面白みを感じたのでした。
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「これは!」と期待しながら行ってみると、城跡ごと公園として整備されていて、空堀と土塁がよく残る中世城郭でした。本丸を囲む堀と、二の丸と三の丸を区切る堀が良好に残っています。
解説では高遠城の出城で、織田信長の甲州攻めの折りに落城したとのこと。推測ですが、当時もし武田方がこの城を使っていたとしても、とても織田勢の大軍に抗せるものではないので、兵を引き上げていたかもしれません(あくまで推測)。いずれにせよ中世で役割を終えた城です。
公園の遊具がお城をイメージした意匠になっているのがかわいい。
かつては狼煙を上げていたであろうお城の跡が、今は電波の送信所になっているのに面白みを感じたのでした。
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松本城(長野県松本市)
伊那と飯田のプラネタリウムを見に行こう、とお誘いを受け、夜行バスで松本へ移動しました。
松本から諏訪盆地へ出て、伊那谷を南下して行こうという算段です。
松本には早朝に着いたので、レンタサイクルを借りて松本城まで出かけてみました。
最近は自転車もシェアリング形式で、人を介さずにスマホのアプリで借りられるサービスが登場しています。松本は標高こそ600m前後ありますが、盆地の底なので街そのものは概ね平ら。自転車に向いている街です。
時おり雨粒が落ちる天気でしたが、傘なしでも何とか大丈夫な空模様。
現在、日本で天守が残っている城は12あります。うち五層天守が残っているのは姫路城と松本城だけ。また12の天守のうち国宝指定されているのは5つで、松本城もその一つです。
パッと見は端正な建物ですが、西正面から見ると、上層部が大きく、頭でっかちな建物であることが分かります。あえて上層階を大きくすることで、全体の見え具合のバランスを取っているのです。
松本城は2000年前後に見学したのですが、まだフィルムカメラの時代で写真は撮っておらず、手帳も何も付けていなかったので、いつ行ったかすら覚えていません。天守に登ったことや近くの開智学校を見学したことは覚えているのですけれども、年月日がまるっと分からない。記録は取っておかねばなりませんね。
# 18きっぷで行ったような気がするのできっぷが残ってるかもしれない(けどないかもしれない)。
さて戦国時代の松本盆地は小笠原氏が治めていて、現在の松本市街の東にある林城という山城が拠点でした。
1550年に武田信玄が松本盆地に兵を進め、小笠原氏は追い出されるように没落。信玄は現在の松本城の位置に深志城を築いて一帯の拠点とし(現在も深志の町名が残っています)、小笠原氏は徳川を頼ります。
やがて武田家滅亡から本能寺の変を経て、徳川に身を寄せていた小笠原貞慶が旧領を回復。徳川の関東移封に伴って小笠原氏は下総・古河(現在の茨城県古河市)に移され、秀吉麾下となっていた石川数正が松本に入府。現在の松本城は石川氏時代に整備されたと考えられています。時代としては1590年から石川氏が改易される1613年までの間のこと。
石川氏の改易後にもう一度、小笠原氏が入るのですが、すぐに東播磨へ移封されて、そこで築いたのが今の明石城。つまり松本城と明石城は小笠原つながりの城なのです。
二の丸の濠は東側だけが残っていて、南東側は低い石垣の上に土塁を乗せた形。堀の幅もそれほど広くありません。北東側は櫓台まで土塁。五層の天守が上がっている城というと大城郭を思い浮かべてしまうのですが、意外にこじんまりした印象です。
松本城太鼓門。建物は平成に入ってからの復元。JR松本駅から歩いてくると反対側ですが、本来はこちらが大手筋。門のあたりは全面的に石垣で固められています。
門の下で通路を塞ぐように円陣を組んでラジオ体操をしているグループがいて閉口しました。雨模様で屋根の下に入りたいのは分かるし、まあ朝の6時半に観光客が来るとは思わないよね。

二の丸御殿の跡は調査が行われて、建物の間取りが表示されています。本丸を凹の字のように取り囲む二の丸の北東側いっぱいに建っていた様子。
時間的に天守内には入れないと思ってましたが、まさか本丸ごと入れないとは想定していませんでした。残念。とはいえ天守の姿を見るだけなら二の丸からでも十分です。というより写真で紹介される松本城は、二の丸から見た濠越しの天守が定番。
せっかくなのでお城を一周。現在残っているのは本丸と二の丸で、凹の字の二の丸の凹んだ部分に本丸があります。城のある土地は北側が高いので、北の濠の外側と城側の石垣の上面が同じ高さのように見えます。往時は城側に塀があったのでしょうけれども。
全体的に中世城郭をそのまま近世城郭に改修した雰囲気です。
二の丸西側の掘は埋め立てられたのですが、復元計画があり、土地の買い取りは進んでいるようです。発掘調査を行っている区画もありました。
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松本から諏訪盆地へ出て、伊那谷を南下して行こうという算段です。
松本には早朝に着いたので、レンタサイクルを借りて松本城まで出かけてみました。
最近は自転車もシェアリング形式で、人を介さずにスマホのアプリで借りられるサービスが登場しています。松本は標高こそ600m前後ありますが、盆地の底なので街そのものは概ね平ら。自転車に向いている街です。
時おり雨粒が落ちる天気でしたが、傘なしでも何とか大丈夫な空模様。
現在、日本で天守が残っている城は12あります。うち五層天守が残っているのは姫路城と松本城だけ。また12の天守のうち国宝指定されているのは5つで、松本城もその一つです。
パッと見は端正な建物ですが、西正面から見ると、上層部が大きく、頭でっかちな建物であることが分かります。あえて上層階を大きくすることで、全体の見え具合のバランスを取っているのです。
松本城は2000年前後に見学したのですが、まだフィルムカメラの時代で写真は撮っておらず、手帳も何も付けていなかったので、いつ行ったかすら覚えていません。天守に登ったことや近くの開智学校を見学したことは覚えているのですけれども、年月日がまるっと分からない。記録は取っておかねばなりませんね。
# 18きっぷで行ったような気がするのできっぷが残ってるかもしれない(けどないかもしれない)。
さて戦国時代の松本盆地は小笠原氏が治めていて、現在の松本市街の東にある林城という山城が拠点でした。
1550年に武田信玄が松本盆地に兵を進め、小笠原氏は追い出されるように没落。信玄は現在の松本城の位置に深志城を築いて一帯の拠点とし(現在も深志の町名が残っています)、小笠原氏は徳川を頼ります。
やがて武田家滅亡から本能寺の変を経て、徳川に身を寄せていた小笠原貞慶が旧領を回復。徳川の関東移封に伴って小笠原氏は下総・古河(現在の茨城県古河市)に移され、秀吉麾下となっていた石川数正が松本に入府。現在の松本城は石川氏時代に整備されたと考えられています。時代としては1590年から石川氏が改易される1613年までの間のこと。
石川氏の改易後にもう一度、小笠原氏が入るのですが、すぐに東播磨へ移封されて、そこで築いたのが今の明石城。つまり松本城と明石城は小笠原つながりの城なのです。
二の丸の濠は東側だけが残っていて、南東側は低い石垣の上に土塁を乗せた形。堀の幅もそれほど広くありません。北東側は櫓台まで土塁。五層の天守が上がっている城というと大城郭を思い浮かべてしまうのですが、意外にこじんまりした印象です。
松本城太鼓門。建物は平成に入ってからの復元。JR松本駅から歩いてくると反対側ですが、本来はこちらが大手筋。門のあたりは全面的に石垣で固められています。
門の下で通路を塞ぐように円陣を組んでラジオ体操をしているグループがいて閉口しました。雨模様で屋根の下に入りたいのは分かるし、まあ朝の6時半に観光客が来るとは思わないよね。
時間的に天守内には入れないと思ってましたが、まさか本丸ごと入れないとは想定していませんでした。残念。とはいえ天守の姿を見るだけなら二の丸からでも十分です。というより写真で紹介される松本城は、二の丸から見た濠越しの天守が定番。
せっかくなのでお城を一周。現在残っているのは本丸と二の丸で、凹の字の二の丸の凹んだ部分に本丸があります。城のある土地は北側が高いので、北の濠の外側と城側の石垣の上面が同じ高さのように見えます。往時は城側に塀があったのでしょうけれども。
全体的に中世城郭をそのまま近世城郭に改修した雰囲気です。
二の丸西側の掘は埋め立てられたのですが、復元計画があり、土地の買い取りは進んでいるようです。発掘調査を行っている区画もありました。
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2025年07月13日
豊臣期大坂城石垣(大阪市中央区)
大坂城へ行った目的は豊臣期大坂城の石垣の見学。1984年に発掘された石垣が、2025年4月から一般公開されています。
大坂城は豊臣秀吉が築いた城と認識されていて、実際に日本史でもそう習います。
ところが現在の大坂城は豊臣家滅亡後の徳川秀忠の時代に築かれたもの。豊臣時代の大坂城はまるっと地面の下に埋めてしまい、跡形のないほどにリニューアルされました。面白いのは天下普請の大工事だったのに、その事実はすっかり忘れられてしまったこと。昭和の戦後まで、大坂城は建物こそ徳川が再建したものの、石垣そのものは豊臣時代の築造と考えられていたのです。
戦後の発掘調査で地下から石垣が出てきて、ビックリ仰天。何だこれは!
当時は大坂城の前にあった石山本願寺の石垣ではいう説も出ましたが、のちに豊臣時代の大坂城の図面が出てきて、それと一致することから地下に埋もれた豊臣期大坂城の存在が脚光を浴びたのです。
(解説パネルは大阪城天守閣の展示より)
最初に豊臣大坂城の石垣が見つかったのは1959年の発掘調査でしたが、別の場所で行われた1984年の調査でも豊臣大坂城の石垣を検出。今回公開されたのは1984年に発見された石垣です。
この時はそこそこ大きなニュースとなり、小学校に貼られるフォトニュースでも取り上げられていました。当時はさすがに大坂城の再建事情まで知りませんでしたが、古そうな石垣の白黒写真だけは覚えています。
豊臣期の大阪城本丸は三段の曲輪がありましたが、公開されているのはその最上段の詰の丸の石垣で、往時は上に櫓が載っていた場所。
地上にガイダンス施設が作られ、建物の地下で石垣が公開されています。もっと早くに公開できなかったのかとも思うのですが、現在の大坂城も国の特別史跡で、豊臣期石垣を埋めた盛り土も史跡の構成要件です。現状を変更するのは慎重な配慮が必要なはずですし、長く地中に埋もれていた石垣を崩れないよう安定した状態で公開するのも簡単ではないはず。
1984年の発掘から40年を経て、いや大坂の陣の後の再築から400年を経て、人々の前に姿を現すことになります。
大坂城は沖積平野に突き出た洪積台地の端にあるので、地面を掘っても石を取れるような場所ではありません。
石材は遠方から運ばざるを得ないのですが、使えるものは何でも使うということで、寺院の礎石や古墳の石棺や石臼や五輪塔まで転用しています。これは大坂城に限らず、戦国から織豊期の城郭の石垣ではよくあること。
徳川期の大坂城の石垣は、石に刻印があったり、砕石場が分かっていたりするので、六甲山や瀬戸内海の島々から切り出して運んできたことが分かっています。一方の豊臣期大坂城は徳川期ほどの手掛かりがなく、石の身元調査はまだまだです。
転用石棺は兵庫県の高砂辺りで採れる竜山石。ただ築城時に高砂から運んだのではなく、近くの古墳から持ってきたのだと思います(推測)。大阪の古墳の石棺は竜山石が多いのです。転用礎石の花崗岩は、説明パネルでは六甲山か生駒山と書いてましたが、さて。ここは岩石の専門家にも見て頂きたいところ。
緑色片岩はこの辺りだと和歌山近辺ですが、なんでまた。庭石に使われることも多いので、どこかの寺の庭園にでもあったものでしょうか。
石垣の表側は大きな石が使われていますが、上から見ると背後にもびっしりと小さな石が詰め込まれていることがわかります。裏込め石と呼ばれるもので、石垣の裏側に溜まった水を逃がすためのもの。
大坂夏の陣で落城・炎上した時の痕跡も残っています。
発掘調査では焼けた金箔瓦なども出ているそうで、せっかくなら一部でもガイダンス施設の中に一緒に展示してくれたらいいのにとも思います。
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大坂城は豊臣秀吉が築いた城と認識されていて、実際に日本史でもそう習います。
ところが現在の大坂城は豊臣家滅亡後の徳川秀忠の時代に築かれたもの。豊臣時代の大坂城はまるっと地面の下に埋めてしまい、跡形のないほどにリニューアルされました。面白いのは天下普請の大工事だったのに、その事実はすっかり忘れられてしまったこと。昭和の戦後まで、大坂城は建物こそ徳川が再建したものの、石垣そのものは豊臣時代の築造と考えられていたのです。
戦後の発掘調査で地下から石垣が出てきて、ビックリ仰天。何だこれは!
当時は大坂城の前にあった石山本願寺の石垣ではいう説も出ましたが、のちに豊臣時代の大坂城の図面が出てきて、それと一致することから地下に埋もれた豊臣期大坂城の存在が脚光を浴びたのです。
(解説パネルは大阪城天守閣の展示より)
この時はそこそこ大きなニュースとなり、小学校に貼られるフォトニュースでも取り上げられていました。当時はさすがに大坂城の再建事情まで知りませんでしたが、古そうな石垣の白黒写真だけは覚えています。
豊臣期の大阪城本丸は三段の曲輪がありましたが、公開されているのはその最上段の詰の丸の石垣で、往時は上に櫓が載っていた場所。
地上にガイダンス施設が作られ、建物の地下で石垣が公開されています。もっと早くに公開できなかったのかとも思うのですが、現在の大坂城も国の特別史跡で、豊臣期石垣を埋めた盛り土も史跡の構成要件です。現状を変更するのは慎重な配慮が必要なはずですし、長く地中に埋もれていた石垣を崩れないよう安定した状態で公開するのも簡単ではないはず。
1984年の発掘から40年を経て、いや大坂の陣の後の再築から400年を経て、人々の前に姿を現すことになります。
大坂城は沖積平野に突き出た洪積台地の端にあるので、地面を掘っても石を取れるような場所ではありません。
石材は遠方から運ばざるを得ないのですが、使えるものは何でも使うということで、寺院の礎石や古墳の石棺や石臼や五輪塔まで転用しています。これは大坂城に限らず、戦国から織豊期の城郭の石垣ではよくあること。
徳川期の大坂城の石垣は、石に刻印があったり、砕石場が分かっていたりするので、六甲山や瀬戸内海の島々から切り出して運んできたことが分かっています。一方の豊臣期大坂城は徳川期ほどの手掛かりがなく、石の身元調査はまだまだです。
転用石棺は兵庫県の高砂辺りで採れる竜山石。ただ築城時に高砂から運んだのではなく、近くの古墳から持ってきたのだと思います(推測)。大阪の古墳の石棺は竜山石が多いのです。転用礎石の花崗岩は、説明パネルでは六甲山か生駒山と書いてましたが、さて。ここは岩石の専門家にも見て頂きたいところ。
緑色片岩はこの辺りだと和歌山近辺ですが、なんでまた。庭石に使われることも多いので、どこかの寺の庭園にでもあったものでしょうか。
石垣の表側は大きな石が使われていますが、上から見ると背後にもびっしりと小さな石が詰め込まれていることがわかります。裏込め石と呼ばれるもので、石垣の裏側に溜まった水を逃がすためのもの。
発掘調査では焼けた金箔瓦なども出ているそうで、せっかくなら一部でもガイダンス施設の中に一緒に展示してくれたらいいのにとも思います。
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2025年02月16日
安城城(愛知県安城市)
徳川家康の先祖となる安城松平氏の居城。
家康の家臣団は彼の勢力が伸びる中で拡大していくのですが、古株は三河以来の家臣ということで三河譜代と呼ばれ、その中でも古い家は安城譜代と呼ばれます。
松平氏はもともと現在の豊田市の松平郷の出といわれ、室町時代半ばの15世紀に西三河に進出してきます。中でも大きな勢力を持って嫡流的存在となったのが安城城に本拠を置いた安城松平氏でした。
安城は安祥とも書かれますが、安祥の表記が出てくるのは江戸時代以降で、戦国期の文書は安城の表記だったとのこと(安城市歴史博物館で頂いたパンフレットによる)。
安城城は現在は主郭に大乗寺、二曲輪に八幡社が建てられています。堀や土塁はないのですが、周囲より高台になっているのが城の名残りで、台地の周囲は人工的に急崖にした切岸になっています。また大乗寺の一角が少し高くなっているのが櫓台と推定されています。
安城松平氏は家康の祖父の松平清康の時代に拠点を岡崎に移します。安城城は織田氏と幾度も争奪戦が繰り返されるのですが、桶狭間の後に家康が信長と同盟を結んだのちは廃城になったといわれています。ただ縄張りに技巧的な部分もあり、小牧・長久手の戦いに備えた改修が行われたのではないかとの説もあります。いずれにせよ江戸時代の安城には城が置かれることはありませんでした。
# 2枚目の写真は主郭から道路を挟んだ祠で、これも櫓台跡とのこと。
それにしても天下人を生んだ氏族のゆかりの地としては小さな城郭です。
家康ゆかりの城では小牧山城が尾張徳川家によって一般の立入が禁じられて保護されるのですが、安城城は家康との直接のつながりは薄いのと、江戸期は譜代大名が次々と入れ替わる岡崎の領地になったので、顧みられることは薄かったのかもしれません。
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家康の家臣団は彼の勢力が伸びる中で拡大していくのですが、古株は三河以来の家臣ということで三河譜代と呼ばれ、その中でも古い家は安城譜代と呼ばれます。
松平氏はもともと現在の豊田市の松平郷の出といわれ、室町時代半ばの15世紀に西三河に進出してきます。中でも大きな勢力を持って嫡流的存在となったのが安城城に本拠を置いた安城松平氏でした。
安城は安祥とも書かれますが、安祥の表記が出てくるのは江戸時代以降で、戦国期の文書は安城の表記だったとのこと(安城市歴史博物館で頂いたパンフレットによる)。
安城城は現在は主郭に大乗寺、二曲輪に八幡社が建てられています。堀や土塁はないのですが、周囲より高台になっているのが城の名残りで、台地の周囲は人工的に急崖にした切岸になっています。また大乗寺の一角が少し高くなっているのが櫓台と推定されています。
安城松平氏は家康の祖父の松平清康の時代に拠点を岡崎に移します。安城城は織田氏と幾度も争奪戦が繰り返されるのですが、桶狭間の後に家康が信長と同盟を結んだのちは廃城になったといわれています。ただ縄張りに技巧的な部分もあり、小牧・長久手の戦いに備えた改修が行われたのではないかとの説もあります。いずれにせよ江戸時代の安城には城が置かれることはありませんでした。
# 2枚目の写真は主郭から道路を挟んだ祠で、これも櫓台跡とのこと。
それにしても天下人を生んだ氏族のゆかりの地としては小さな城郭です。
家康ゆかりの城では小牧山城が尾張徳川家によって一般の立入が禁じられて保護されるのですが、安城城は家康との直接のつながりは薄いのと、江戸期は譜代大名が次々と入れ替わる岡崎の領地になったので、顧みられることは薄かったのかもしれません。
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posted by ふくだ at 23:48| Comment(0)
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桜井城(愛知県安城市)
桜井城は松平氏の庶流・桜井松平氏の拠点でした。
城跡は城山公園となっていますが、見かけは全くの都市公園。公園の南西隅に城跡の石碑が立っている小山があるのですが、ここが主郭の外郭線に当たり、当時の土塁の遺構と思われます。
安城市埋蔵文化財センターの「市内遺跡発掘調査報告展リーフレット」によると公園の敷地一帯が桜井城の主郭跡になっていて、確かに公園は周囲より1〜2mほど高い土地になっています。ただ西側が区画整理で住宅地に、東側が2車線の車道になっていて、あまり城跡らしさはありません。
# 公園の入口に冠木門のモニュメントがあるので雰囲気は何となく。
桜井松平氏は家康より前の時代に分かれた松平氏の庶流で、譜代大名となり、摂津尼崎城主として明治を迎えました。
兵庫県尼崎市にある桜井神社は尼崎城主を祀っていますが、その名前の大元の由来がここになります。尼崎城下の人は安城に足を向けて寝てはなりませぬ。
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城跡は城山公園となっていますが、見かけは全くの都市公園。公園の南西隅に城跡の石碑が立っている小山があるのですが、ここが主郭の外郭線に当たり、当時の土塁の遺構と思われます。
安城市埋蔵文化財センターの「市内遺跡発掘調査報告展リーフレット」によると公園の敷地一帯が桜井城の主郭跡になっていて、確かに公園は周囲より1〜2mほど高い土地になっています。ただ西側が区画整理で住宅地に、東側が2車線の車道になっていて、あまり城跡らしさはありません。
# 公園の入口に冠木門のモニュメントがあるので雰囲気は何となく。
桜井松平氏は家康より前の時代に分かれた松平氏の庶流で、譜代大名となり、摂津尼崎城主として明治を迎えました。
兵庫県尼崎市にある桜井神社は尼崎城主を祀っていますが、その名前の大元の由来がここになります。尼崎城下の人は安城に足を向けて寝てはなりませぬ。
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posted by ふくだ at 23:47| Comment(0)
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誓願寺(愛知県安城市)
誓願寺も城郭遺構を備えたお寺で、敷地の北東隅に土塁と堀が残っています。
土塁はそれらしい土盛りがあるのですが、堀は言われてみないと分からないというか、土塁とセットの場所に細長い空き地があるのがそれという状態。
山門は寺部城城門(豊田市)を移築したという伝承があります。こちらは訪問された方の記事(【史跡/仏閣巡り】寺部城城門が移築された小松山 誓願寺(愛知県安城市))がありますが、伝承は伝承として山門そのものは江戸時代の建築様式というお話。
境内にお墓のある内藤家は、徳川の譜代の家臣として江戸時代に大名家になります。代表的なところでは高藤城主の内藤氏で、この江戸屋敷の周辺が甲州街道の宿場町の内藤新宿、引いては現在の新宿区の地名の元になります。内藤の方は新宿御苑の敷地が内藤町でこちらに名を伝えています。続きを読む
土塁はそれらしい土盛りがあるのですが、堀は言われてみないと分からないというか、土塁とセットの場所に細長い空き地があるのがそれという状態。
山門は寺部城城門(豊田市)を移築したという伝承があります。こちらは訪問された方の記事(【史跡/仏閣巡り】寺部城城門が移築された小松山 誓願寺(愛知県安城市))がありますが、伝承は伝承として山門そのものは江戸時代の建築様式というお話。
境内にお墓のある内藤家は、徳川の譜代の家臣として江戸時代に大名家になります。代表的なところでは高藤城主の内藤氏で、この江戸屋敷の周辺が甲州街道の宿場町の内藤新宿、引いては現在の新宿区の地名の元になります。内藤の方は新宿御苑の敷地が内藤町でこちらに名を伝えています。続きを読む
posted by ふくだ at 23:46| Comment(0)
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本證寺(愛知県安城市)
三河一向一揆の拠点となった浄土真宗の寺院。
1563年に起きた三河一向一揆は徳川家康(当時は松平家康)の家臣の半数が一揆側に与したともいわれ、若かりし家康の最大の危機でした。1560年の桶狭間の戦いで今川傘下から独立したばかりで、一揆の鎮圧まで半年を要しました。武田信玄に大敗した三方ヶ原の戦い、本能寺の変後に少人数の家臣で堺から三河まで脱出した伊賀越えと共に家康の三大危機とされています。
本證寺は一揆側の中心寺院で、現在も二重の堀と土塁に囲まれていた城郭造りの姿の一部を留めています。本證寺は一揆鎮圧の後にいちど廃絶され、江戸時代の初期に再興されました。
冒頭写真の二階櫓はいかにも城郭風ですが、これも江戸時代に建てられた鼓楼(安城市指定文化財)。
現在は本堂と庫裏をそれぞれ堀が囲んでいますが、これは一揆の後に埋められたものを、江戸時代の寺院再興の際に掘り直したもの。現在の堀の深さは1mほどで防御用の深さはなく、区画の意味合いが強いものです。発掘調査では現在の堀の底にさらに深い戦国時代の堀が検出されています。
地図で見ると水堀に囲まれているのですが、冬の乾燥した時期のためか水は引いていて底の泥も乾いている状態。城郭であれば堀の内側に土塁があるのですが、現在の本堂周囲は浅い堀だけなので区画のためのものと分かります。土塁がないだけでほとんど防御施設の雰囲気がなくなるのが面白い。
本堂の北側に渡り廊下で庫裏がつながっていて、こちらも独立した曲輪のように堀が巡っています。庫裏の北側には土塁が残っていて、現地で見たときは戦国期の遺構かと思ったのですが、安城市埋蔵文化財センターの2022年度の市内遺跡発掘調査報告展リーフレットによると、江戸時代の痕跡しか見つかっていないそうです。
庫裏の周囲の堀も、発掘しても戦国期の遺構はない部分もあるそうで、江戸期の再興時に場所を変えたか新たに掘り直したもの。
# 土塁は車止めや柵があったので離れたところから撮影。なかなか立派な遺構。
本證寺境内は2015年に国の史跡に指定され、現在は一帯を史跡公園として整備する工事が進んでいます。
発掘調査は1999年から断続的に続いていて、訪問時も本堂の西側一帯でトレンチが掘られている様子を見ることが出来ました(日曜日なので調査自体はお休み)。
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1563年に起きた三河一向一揆は徳川家康(当時は松平家康)の家臣の半数が一揆側に与したともいわれ、若かりし家康の最大の危機でした。1560年の桶狭間の戦いで今川傘下から独立したばかりで、一揆の鎮圧まで半年を要しました。武田信玄に大敗した三方ヶ原の戦い、本能寺の変後に少人数の家臣で堺から三河まで脱出した伊賀越えと共に家康の三大危機とされています。
本證寺は一揆側の中心寺院で、現在も二重の堀と土塁に囲まれていた城郭造りの姿の一部を留めています。本證寺は一揆鎮圧の後にいちど廃絶され、江戸時代の初期に再興されました。
冒頭写真の二階櫓はいかにも城郭風ですが、これも江戸時代に建てられた鼓楼(安城市指定文化財)。
現在は本堂と庫裏をそれぞれ堀が囲んでいますが、これは一揆の後に埋められたものを、江戸時代の寺院再興の際に掘り直したもの。現在の堀の深さは1mほどで防御用の深さはなく、区画の意味合いが強いものです。発掘調査では現在の堀の底にさらに深い戦国時代の堀が検出されています。
地図で見ると水堀に囲まれているのですが、冬の乾燥した時期のためか水は引いていて底の泥も乾いている状態。城郭であれば堀の内側に土塁があるのですが、現在の本堂周囲は浅い堀だけなので区画のためのものと分かります。土塁がないだけでほとんど防御施設の雰囲気がなくなるのが面白い。
本堂の北側に渡り廊下で庫裏がつながっていて、こちらも独立した曲輪のように堀が巡っています。庫裏の北側には土塁が残っていて、現地で見たときは戦国期の遺構かと思ったのですが、安城市埋蔵文化財センターの2022年度の市内遺跡発掘調査報告展リーフレットによると、江戸時代の痕跡しか見つかっていないそうです。
庫裏の周囲の堀も、発掘しても戦国期の遺構はない部分もあるそうで、江戸期の再興時に場所を変えたか新たに掘り直したもの。
# 土塁は車止めや柵があったので離れたところから撮影。なかなか立派な遺構。
本證寺境内は2015年に国の史跡に指定され、現在は一帯を史跡公園として整備する工事が進んでいます。
発掘調査は1999年から断続的に続いていて、訪問時も本堂の西側一帯でトレンチが掘られている様子を見ることが出来ました(日曜日なので調査自体はお休み)。
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