2019年12月31日

お城訪問リスト2019

20190825hachigata_takasaki049.jpg これまで巡ったお城のリスト、2019年版です。
 累計が168城。実際はもっと回っていますが、記憶が怪しいところは外しています。デジカメ以降は撮影データから訪問年月日が分かるので便利になったものです。

 いわゆる城郭だけでなく、江戸時代の陣屋、近代の要塞施設まで、防御施設全般を含めています。また総構えに入っただけのものは含めず、本城域内に入ったものは主郭に至らずとも数えています。

 日本100名城のスタンプラリーは参加していませんが、該当する城郭はカウントしました。100名城は有名どころが多いので半分を越えていますが、続100名城となると多少マニアックな選定もあり、まだまだです。


総計:168
日本100名城:53/100
続日本100名城:19/100
現存12天守:7/12(うち国宝5城:4/5)

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2019年12月15日

広島城

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 広島城は毛利輝元(毛利元就の孫)によって1589年より築城が開始されました。
 毛利氏の本拠は広島から北東40kmの山間にある吉田郡山城でしたが、豊臣秀吉の天下統一が既定のものとなり、中世の山城から、広大な城下町を築け、瀬戸内海にも通じる広島の地に居城を移したものです。
 城の縄張りは秀吉の聚楽第を元にしたと言われており、方形の本丸の南側に大きな角馬出しの二の丸が接続、さらにこの2つの曲輪を三方から囲む凹形の三の丸が中核となっていました。

 江戸時代から残っていた天守は旧国宝に指定されていましたが、原爆投下時に爆風で倒壊。崩れた木材は住居の再建や薪に使うために持ち去られたといいます。文化財的には辛い話ですが、当時の状況を考えれば仕方がありません。

 別称「鯉城(りじょう)」と呼ばれ、のちの広島東洋カープ設立の際、球団名の由来の一つとなりました。

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 他に残っていた建物も原爆で倒壊したため、現在の建物は全て復元建造物です。
 二の丸の南側の石垣上に建つ、平櫓・多聞櫓・太鼓櫓。平櫓の北には表御門が接続しています。1989年から1994年にかけて復元されたもので、戦前の写真・図面や発掘調査の成果を元に木造で再建されています。内部も一般公開されていて、建物そのものの見学のほか、城郭に関する資料展示が行われています。

20191215hiroshima110.jpg 二の丸に颯爽と登場した武将たち。戦隊ヒーローに近いノリでしたが、こういうの割と好きです。
 毛利輝元と吉川元春と浅野長晟という人選が少々謎。浅野長晟の代わりに小早川隆景で毛利両川にするか、吉川元春との代わりに福島正則で築城3代にしたら収まりがよいと思うのですが、細かいことは気にせず楽しむが吉。

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2019年10月10日

二条城(京都市中京区)

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 二条城。徳川家康が京都の拠点として築いたお城です。
 信長、秀吉も二条の界隈に居館を築いているのですが、信長は本能寺で落命し、秀吉は後に聚楽第を築いているので、現在は跡形もありません。聚楽第は堀が地形として残っていますけど。

 家康の二条城は現在の敷地の東半分のみで、西側は家光によって拡張されます。家光の時代に後水尾天皇を迎えての行幸が行われたのが晴れ舞台で、その後は幕末の13代家茂まで入場した将軍がいません。安定した時代の二条城は役割のないお城だったのです。
 その後、最後の将軍・慶喜によってこの二条城で大政奉還が発表され、長きに渡った徳川幕府そして武家政権の幕が降ろされます。二条城が歴史の大舞台となった最後の時でもありました。

 さてこの二条城、中学の修学旅行で寄ったはずですが、まったく当時の記憶がございません。何を見ていたのでしょう、私。

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 南東隅櫓。国指定重文。徳川家のお城の建物は規格化されてるので、江戸城や名古屋城の櫓も似た雰囲気です。二重櫓に石落としや破風をつけて豪華に見せているのがいかにも将軍家の京の城。

 東大手門。国指定重文。石垣の積み方が隙間のない切込ハギの布積みで気合が入ってます。花崗岩です。
 門の北と南で濠の水面の高さが違います。北のほうが水位が高いのですが、これは南が低い京都の地形のため。門の土橋が高低差のある堀を仕切る土手の役目も兼ねているのです。

 たまたまガイドツアーの時間だったので、中の見学はこれに参加しました。別料金が必要ですが、解説付きで通常の見学では入れない所もちょこっと見せてくれるので、おすすめです。各自に無線機を渡されて、イヤホンで解説を聞くのが今風といえば今風。博物館ではよくありますが、屋外ではまだ珍しいのでは。

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 唐門。国指定重文。徳川家光時代に後水尾天皇の行幸に合わせて建築。ちょっと日光東照宮的な雰囲気の豪華さ。
 これ以上やるとやり過ぎな絢爛さで、なんというか桃山時代の豪華さの行き着いた果てのようです。

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2019年09月01日

津山城(岡山県津山市)

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 津山城は岡山県中部の津山市にある城郭です。
 関ケ原の後に入府した森氏によって築かれ、1603〜1616年の13年もの工事の末に完成。のち越前松平氏が入って明治を迎えます。大きな戦いに巻き込まれることもなく、明治維新後はすべての建物が破却されてしまったのですが、壮大な石垣が残っています。

20190901tsuyama-chuka-ningyo003.jpg 森氏は元は織田家の家臣で、著名な人物では信長の小姓を務めた森蘭丸がいます。
 森一族は信長・秀吉の天下取りの過程で活躍するのですが、浅井・朝倉連合軍との戦いの中で蘭丸の父、森可成と嫡男の可隆が討死。三男の蘭丸と四男・五男は信長の小姓として取り立てられますが、本能寺の変で討死。
 次男の森長可が当主となって勇名を馳せますが、小牧・長久手の戦いで討死。一族の男子5人が戦場で命を落とすという壮絶な家で、唯一生き延びた末弟の森忠政が跡を継ぎ、関ケ原では徳川方について、美作一国18万石の領主となります。三の丸の門の前に、藩祖となった森忠政の銅像があります。

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 津山城は比高50mの鶴山を梯郭式の平山城とし、山麓に家臣団の屋敷を構えて幅20m以上の外堀で囲みました。城郭部は本丸・二の丸・三の丸のほぼ全てが石垣づくり。五層の天守をはじめ、70以上の櫓が配される厳重な作りでした。
 外様の森氏がこれだけの大城郭を築いたものだと思います。五層天守は幕府に睨まれたので、四層目の瓦をはがして板葺きにして「四層天守だ」と言い逃れたというエピソードも。

 森氏は5代94年の統治の末、継嗣なく断絶。幕府はこの大城に親藩の松平氏を入れて山陽道の押さえとします。本丸御殿が火災にあって縮小再建したほかは、建物もよく残っていたのですが、明治維新後にことごとく破却。
 維新後も建物が残されていれば、津山は戦災に遭わなかったので、姫路城にも劣らぬ名城として知られる存在になったと思います。

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 本丸西側にある天守台。往時は五層の天守が上がっていました。
 独立式天守ですが、天守の西側を多聞櫓で固め、本丸側は石垣の擁壁で固めた天守曲輪になっています。

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 本丸御殿を挟んで東側は高石垣の擁壁。天守台よりも高い石垣で、これは城の東側に川を挟んで同じくらいの比高の丘陵があるため、そこからの砲撃を防ぐために設けたものと言われています。

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 唯一の建物は備中櫓と呼ばれる二層櫓。2005年に古図面に則って復元されました。
 普通のお城の櫓は倉庫などに使われることが多く、床は板張りが普通ですが、備中櫓は全室畳敷き。これは本丸御殿とつながっていて、居住空間として使われていたためです。江戸時代の間に内部の部屋の使い方は色々変わっているのですが、創建当時の森氏の時代に合わせて復元したそうです。

 津山城は本丸・二の丸・三の丸がひな壇のように重なった縄張りですが、まとまった面積の敷地があるのは本丸だけで、二の丸と三の丸は石垣に沿った櫓こそ林立していたものの、帯曲輪のような作りです。御殿は本丸と二の丸にありましたが、二の丸のものは規模が小さく、山上の本丸が幕末に至るまで使われました。

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 石垣の折り重なる二の丸入り口と本丸入り口。ひたすら横矢掛りを重ね、攻城者の視点で見ると生きた心地がしません。
 とにかく山麓から山上まで石垣が素晴らしく、ここまで厳重にする必要があったのかと思うくらい。関ケ原前後に築かれた近世城郭は、また豊臣家が健在で天下静謐とは言い難かったこともあるためか、凝った縄張りの城が多いように思います。

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2019年08月25日

高崎城(群馬県高崎市)

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 高崎市街の真ん中に高崎城があります。
 伝承では元になる和田城は平安時代よりあったとのことですが、現在の高崎城が築かれるのは徳川家康の江戸入府後、徳川四天王の一人、井伊直政による築城です。直政はもともと高崎より10kmばかり北にある榛名山麓の箕輪城に入るのですが、家康の命で交通の要衝である高崎への移転を命じられたのでした。

 土塁と濠に囲まれた平城で、明治以降は陸軍の駐屯地として利用されたため、城の中心部は均されて平地となり、最外郭の三の丸の土塁と濠のみが残っています。

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 高崎城の建物は乾櫓と東門が残っています。いずれも明治後に城下の農家に払下げられたものを三の丸に再移築したもの。
 乾櫓は本丸北東にあったもので、櫓の石垣は移築時に模擬で積んだもの。これを納屋として使っていたそうですが、相当目立つ建物だったのではないでしょうか。
 東門は三の丸の出桝形と呼ばれる突出部にあった門とされています。こちらは城下の名主の家に移築されて門として使っていたそうです。
 しかし払下げの建物がよく残っていたものです。
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鉢形城(埼玉県寄居町)

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 鉢形城は荒川と深沢川の合流点の台地の上に築かれました。
 北の荒川・南東の深沢川とも10m近い断崖の天然の堀となっていて、地続きの南西に土塁と空堀を何重にも重ねた堅城です。

 長尾景春の築城ですが、のちに後北条氏の重要拠点となり、北条氏康の四男・北条氏邦が城主となります。1590年の小田原の役では上杉・前田らの北国勢3万の包囲を受け、3千の城兵で籠城しますが、一ヶ月後に城兵助命を条件に開場。城主の北条氏邦は出家しますが、のちに前田家の客将として後半生を過ごします。

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 最外郭の馬出し。現在は諏訪神社が鎮座していますが、周囲を土塁と深い空堀で囲んで、三の曲輪の馬出しになっています。方形の角馬出しと言われる形式で、後北条氏の城によく見られる形態。

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 三の曲輪の虎口。
 三の曲輪はいくつかの段になっていて、発掘調査の結果、伝秩父曲輪と呼ばれる北側部分は屋敷地が検出されています。現在は門や庭園が復元されています。この門の建物は虎口ではなく城内の屋敷の門。

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 三の曲輪の土塁は内側を石垣で補強してあります。これも発掘調査に基づくもの。

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 三の曲輪南側の伝逸見曲輪。小さな段の曲輪に分かれていて、馬出しもあります。一面の草むらになっていて、季節柄、丈が伸びているので散策中に現在地ロストしました。もし攻城側なら討死です。

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 二の曲輪と三の曲輪をつなぐ馬出し。こちらも角馬出しです。
 鉢形城は三の曲輪が上流側、本曲輪が下流側にあるので、標高は西の城外が高く、三の曲輪→二の曲輪と低くなっていきます。現存する馬出しの土塁と三の丸の地面がほぼ同じ平面で、かつての土塁はもっと高かったとはいえ、地形は守城側に不利です。馬出しの堀は鋭く深く、土木工事で防御力を高めた様子が垣間見えます。

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 二の曲輪の土塁と空堀。当時の土塁の高さが分からないので、高さ控えめの整備がなされています。
 発掘調査に基づいた保存復元は好感を持てます。

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 東西に長い本曲輪は南北2段に別れていて、北側の川沿いのほうが標高の高い伝御殿曲輪、南側の低いほうが伝御殿下曲輪。伝御殿曲輪は高台で、三の丸と同じくらいの標高があり、よく古い状態を保っています。伝御殿下曲輪は車道が貫通して現代の建物や施設も点在しています。実は学生の頃にこの道を通り抜けたことがあり、チラホラ見える遺構を見ながら、ここが鉢形城かと心躍る思いをしたのを思い出しました。
 最初の鉢形城はおそらく本曲輪の範囲のみで、陸続きの西へ向かって次第に城域が拡大されていったのでしょう。

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 本曲輪の東にある笹曲輪。現在は寄居駅から荒川を渡る橋が取り付いています。公園のように整備されていて、平地には鉢形城の地形と縄張りを再現した模型があります。
 鉢形城の縄張りは複雑なので、寄居駅方面から見学に来た場合、概要を掴むためにもここを見ておくのをおすすめします。

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 本曲輪・二の曲輪・三の曲輪は荒川と深沢川の間にありますが、深沢川の対岸に築かれたのが外曲輪。
 広大な曲輪で、堀は埋まって跡地だけ残っていますが、土塁はしっかり盛り土をたどれる状態です。比較的単調な外郭ラインで、おそらく鉢形城の最終段階で築かれたのだと思います。

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 外曲輪の一角にあるのが鉢形城歴史館。鉢形城の復元模型や発掘調査の出土物が展示されています。
 館の規模は大きくないのですが、鉢形城の概要をさっと掴むにはほどよいボリューム。リーフレットの裏側が縄張り図になっていることもあり、車で訪問される場合は最初に見学するのをおすすめします。

 鉢形城歴史館では夏ということもあり、うちわのプレゼントがありました。三つ鱗は後北条氏の紋。翕邦邑福(きゅうほうゆうふく)の印判は鉢形城主・北条氏邦が用いたものです。

 鉢形城は全体的に保存状態もよく、発掘調査に基づいた整備もなされていますが、行き過ぎた公園化が進むこともなく、行き届いた環境が維持されています。ついつい2時間近く散策してしまいました。

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2019年08月01日

高知城(高知県高知市)

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 高知城は関ヶ原の戦いの戦功で土佐一国を与えられた山内一豊が、領国経営の拠点として築きました。
 元々は長宗我部元親が岡豊城に代わる拠点として、当地に大高坂山城を築き始めたのですが、治水に難ありで浦戸城に移ったとされています(近年は大高坂山城の整備も続けていたとの説も出ています)。
 土佐に入った山内一豊は初め浦戸に入りますが、1601年より改めて大高坂山の築城に着手し、1603年に完成。
 大高坂山城の城名は、河中山城に改められ、さらに高智山城と→高知城となります。

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 山内一豊の建てた天守は1724年に火災で焼失し、1747年に再建。この際に以前の天守を忠実に再現したとされ、当時としては古風な望楼型天守となっています。現存十二天守の一つで国指定重要文化財。
 高知城天守は天守台がなく、本丸と同一平面に、北側を石垣に接する形で建てられています。天守北面には武者返しが残っています。
 なお一豊の高知城天守は以前の居城の掛川城の天守を模したと言われており、1994年の掛川城天守の再建の際には高知城天守をモデルにしています。

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 天守の最上階は全周に回縁と呼ばれるベランダが付いています。この構造の天守は意外に少なく、現存天守では高知城と犬山城だけ。見晴らしはよいのですが、高所の木材を風雨に晒すのでメンテナンスが大変です。
 高知の城下町を一望のもとに出来るのですが、意外にも海は見えません。まるで盆地の底のようです。

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 天守に隣接するように本丸御殿が残っています。こちらも天守と同時に火災で焼失し、同時期の再建です。
 御殿は政庁と城主の生活の場であり、平時の城の中心的な存在でしたが、天守よりも残っている建物が少なく、全国に4例しかありません。本丸御殿は高知城と川越城、二の丸御殿は二条城と掛川城に残っています。天守と御殿がセットで残っているのは高知城のみ。
 本丸はさほど広くない敷地に天守と御殿と多聞櫓が建っているので、天守曲輪と言ったほうが似つかわしい気もします。
 なお一豊以降は二の丸がメインで使われるようになり、本丸は城の象徴的空間として藩主が立ち入る機会も少なくなったとか。
 ゆっくり見学していたので、帰りに抜けようとした搦手側が閉門されてしまいました。

20190801kochi192.jpg 高知城の大手門前には藩祖の山内一豊の銅像があります。一度は戦時の金属供出で失われ、近年再建されたもの。山内一豊は早い時期から羽柴秀吉に仕え、掛川5万石の領主となります。
 関ヶ原の役の際に東海道に配された大名の中でいち早く徳川家康に従った功を評されて土佐一国を与えらますが、地味といえば地味。また幕末の山内家は下士層から多くの脱藩者を出したことから幕末物のドラマでも損な役回りを与えられがちです。
 とはいえ秀吉股肱の家臣から徳川時代に至るまで無事に家名を残した家は少なく、土佐一国の国持大名となった手腕はもう少し評価されてもよいのかもしれません。

20190801kochi195.jpg 大手門をくぐっって三の丸へ向かう坂の脇に自由民権運動で知られる板垣退助の銅像。土佐藩の出身で、戊辰戦争では乾退助の名で新政府軍を率います。会津戦争では母成峠を抜いて一挙に会津若松城下まで進撃し、序盤で新政府軍の優位を確立する活躍を見せました。陸軍に進めば優れた指揮官になったはずの人ですが、政治の道に入って、下野した後にかえって名を成したことになります。

20190801kochi196.jpg 三の丸には山内一豊の妻、見性院の銅像があります。馬と一緒なのは、信長の前での馬揃えの際に、へそくりから名馬を買い求めて、一豊が注目されるきっかけをつくった「内需の功」の逸話から。しかし藩祖が大手門の外で奥さんが城内なのか。

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岡豊城(高知県南国市)

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 岡豊城は高知平野の東部にあり、比高90mほどの小山の上に築かれています。現在の自治体では南国市に当たりますが、古くからの土佐の中心で、土佐国府や土佐国分寺なども付近に置かれていました。

 岡豊城は長宗我部氏累代の居城で、長宗我部元親の代の四国統一の拠点となりました。現在は城跡に隣接して高知県立歴史民俗資料館が建てられており、城跡も発掘調査が行われ、見学路が整備されています。

 四国の雄の拠点としては小振りな城ですが、長宗我部氏が国人領主(国衆)だった時代の規模そのままに、土佐そして四国を統一してしまったのでしょう。後の秀吉による四国平定戦では阿波の白地城を迎撃の拠点として改修し、土佐を安堵された後は岡豊城から浦戸城に拠点を移しています。
 その後は廃城となり、開発の手も入らなかったため、曲輪の削平地や土塁・空堀、建物跡の礎石や石垣などが良好に残っています。

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 山上の詰の段(主郭丸相当)や二の段からは遠く太平洋も望むことができます。
 詰の段と三の段には削平地いっぱいに建物跡の礎石が残り、窮屈なくらいの土地利用。

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 四の段の外には立派な虎口があり、この外側にも横堀が残っています。いちばん隅の伝厩跡曲輪まで行こうとしましたが、駐車場まで戻るのが大変なので断念。それでも主要部の遺構だけで十分に楽しめました。

 高知県立歴史民俗資料館の閉館時間も駐車場を利用することができ、車があれば訪問しやすいところです。散策路も意向を壊さぬように整備されていて、遺構の説明も充実。個人的にはおすすめ度の高い城郭です。
# 建物などは一つもないので、城郭探索が好きな人にはおすすめということ。

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浦戸城(高知県高知市)

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 長宗我部元親が豊臣秀吉に従った後、新たな拠点として築いたのが浦戸城です。
 土佐湾に一段深く切れ込んだ浦戸湾は天然の良港で、現在の高知市街地はその奥に面しています。一方で浦戸城は湾の入り口を扼する立地で、桂浜を見下ろす丘の上に築かれています。
 積極的に海運をにらんだ築城と評することも出来ますが、浦戸城は半島の先端で、周囲も丘陵が多くて平地に乏しく、広い城下町を営む余地がありませんでした。

 関ヶ原の役後に長宗我部氏は改易、山内一豊の入府後は現在の高知城に拠点が移され、浦戸城は廃城となります。
 もっとも長宗我部元親も現在の高知城の位置に築城を試みていて、浦戸城は並行して築かれた水軍の拠点だったとする説もあります。土佐一国の府であることを考えると、その方がしっくりする気もします。

 現在の浦戸城は、本丸跡に国民宿舎と坂本龍馬記念館が立ち、城跡の丘陵を縦断するように自動車道が建設されたため、遺構の多くが破壊されています。本丸跡の一角の高台が天守台跡とされていて、その前に案内板が立っています。
 脇に積まれた石垣は発掘調査の際に出土した石垣を移築されたものだとか。
 他にも出土した石垣をそのまま展示した場所があるそうですが、気付かずに見逃してしまいました。

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 桂浜へ下る自動車道の途中にも浦戸城跡の石碑があります。
 ここも目立つ遺構はないのですが、石碑の下側に整地された区画があり、もしかすると帯曲輪かもしれないと思いながら、確証が持てずにその場を後にしたのでした。

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2019年07月18日

勝瑞城館(徳島県藍住町)

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 徳島県藍住町にある勝瑞城と勝瑞館を一括して、国指定史跡の勝瑞城館となっています。
 細川氏・三好氏が長く拠点とした地で戦国時代の阿波の中心地でした。

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 勝瑞城は水堀に囲まれた平城で、一部に土塁が残っています。郭内には三好氏の菩提寺の見性寺があります。
 遺構はよく残っていますが、単郭でさほど大きな面積もなく、累代の守護所の推定値としては随分小振りです。
 かつてはここが守護所の跡だと思われていたのですが、発掘調査の進展に伴い、戦国後期に長宗我部氏の侵攻に備えて築造された一角と推定されています。

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 勝瑞館は勝瑞城に隣接する地区にあり、こちらが阿波細川氏・三好氏の居館だったと推定されています。今も発掘調査が続いていて、多くの遺構は埋め戻されていますが、堀や一部の建物は地表に位置がわかるよう表示されています。

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 建物の跡を東屋として整備したり、庭園の庭石が分かるようにしてあったり。このあたりの優雅な雰囲気は城というより守護の居館にふさわしい感じ。
 今後、整備が進むのが楽しみです。

 勝瑞城・勝瑞館とも1582年の長宗我部氏の侵攻で落城し、廃絶しました。羽柴秀吉の四国平定後に阿波に入った蜂須賀氏は今の徳島城を築いて阿波の政庁とし、勝瑞は阿波の首邑から一農村となりました。

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