2017年06月04日

疾走、N700系7000/8000番台

 帰路は久々に山陽新幹線に乗車。
 九州新幹線直通列車に利用されているN700系7000/8000番台に初めて乗りました。8両編成で普通車指定席は2列+2列、普通車自由席は2列+3列の座席配置。ひかりレールスターの車両と似た編成ですが、こちらは半室グリーン車が設けられています。今回は節約のため自由席を利用。
# 同じ車両ですが、JR西日本所属車が7000番台、JR九州所属車が8000番台とのこと。

 乗った列車は九州新幹線直通の「さくら」。山陽新幹線内は「のぞみ」に準じた停車駅で、九州新幹線内は様々な停車バリエーションがあります。九州新幹線内も速達列車となるのは「みずほ」の愛称となり、「さくら」「みずほ」ともかつての東京-九州間のブルートレインの名称を引き継いだもの。

 N700系は山陽新幹線の姫路以西で最高速度300km/hの運転を行ないます。
かつては500系新幹線が山陽区間で300km/h運転を行っていましたが、編成数が少なかったため、ちょっと特別な列車という印象がありました。N700系は新幹線の「標準型車両」なので、今では300km/h運転が日常のものとなっています。
 携帯のGPSアプリを立ち上げて速度を見ていると、駅間のほとんどの区間で280km/hを叩き出し、290km/hを越える区間も多いです。瞬間的にでも300km/hを越えたのは2回ほどでした(スクリーンショット撮り損ねた)。
# あくまで「最高運転速度」が300km/hなので、300km/hを維持して走るわけではありません。

 かつて新幹線の最高速度が210km/hだった頃を知っている身としては、つくづく速くなったものだと思います。
posted by ふくだ at 23:49| Comment(0) | 地図と地理と遠出

山口いろいろ

 山陽小野田市にて。ところどころで見かける黄色いガードレール。山口県の夏ミカンの色なのだとか。

 赤瓦の屋根が多いのは、石州瓦のエリアなのかと推察。兵庫県下だと淡路の瓦が多いせいか赤瓦は珍しいのです。
 東北へ行くと耐寒性に優れた赤瓦というのがありますが(復元された若松城の天守など)、あれは茶色に近い色合い。鮮やかな赤瓦は新鮮な気がします。
posted by ふくだ at 23:48| Comment(2) | 地図と地理と遠出

九州いろいろ(6月3日・4日)

 車窓から見たスペースワールド。2017年いっぱいでの閉園が決まっています。実はまだ一度も行ったことがありません。

 黒崎駅の西鉄バスターミナルにて。バスターミナルに路面電車が止まっていました。筑豊電気鉄道という路線で、かつて北九州市内を走っていた西鉄の路面電車の名残だそうです(相互乗り入れしていたけど別会社らしい)。低床タイプの現代的車両。

 久留米の福岡県科学館の隣の五穀神社に寄ったら、田中久重の胸像がありました。東芝の創業者。久留米の出身でしたか。万年自鳴鐘は上野の科博で見たことがあります。

 特急「あそぼーい」。駅の電光掲示板に「あそぼーい」と表示されていたら、SLの「あそBOY」だと思うじゃないですか。
 やってきたのは気動車ですよ。ちょっと待て。そういえばSLはSL人吉になってるのでした。
 あとから調べたら、ふだんは熊本から阿蘇まで運転している車両を、熊本自身の影響で豊肥線が止まっているため、博多-門司港で走らせているそうです。

 JR九州817系電車。何がすごいって、椅子が木製。合板にモケットを貼り付けてます。これが意外に座り心地は悪くない。内装に木を使うだけで、おしゃれな感じでワクワクします。これが通勤電車でふだんから走っているのだから、JR九州やりよります。

 関門マーチス。海上保安庁の関門海峡海上交通センターで、いわば海の管制塔。
# 明石海峡にも淡路島に大阪湾海上交通センターがあります。

 門司駅。門司港行きと下関行きの分岐点で、下関行きの線路には駅を出てすぐに交直切り替えのデッドセクションがあります。
 いきなり電車が古い車両になり(常磐線でも走っていた415系)、それでもシートだけは貼り替えてあるのはJR九州の意地。JR九州で交直両用車両が要るのはここだけなので、現用車両を使い倒すつもりなのでしょう。
 古い車両のおかげでデッドセクション通過中は車内の灯りが補助灯だけになる、かつての常磐線の取手-藤代間のような雰囲気を味わえます。スマホでビデオ撮ったつもりでいたのですが、録画ボタンを押していなかったという大失敗。
posted by ふくだ at 23:45| Comment(4) | 地図と地理と遠出

2017年06月03日

阪九フェリー「つくし」

 2013年以来4年ぶりの瀬戸内海航路。
 阪九フェリーの「つくし」は2002年に就航した船で、当初は泉大津航路で運行されていましたが、現在は神戸航路に配船されています。

 今回は2等指定B洋室シングルを確保。以前は無かったクラスで、2等大部屋の区画内に壁を入れて個室を10室配した作り。
 以前からある2等指定A洋室シングルと比べると、部屋が一回り狭く、テレビなし、机椅子なしの物置台ありという簡素な設備。ドアの下に5cmほど隙間があるので、同じ区画の物音はそれなりに聞こえます(大部屋入口の部分にもドアがあるので、共用区画の音は気になりません)。
 電源コンセントの場所が分かりにくく、ベット脇の蛍光灯の下面にあります。現在では携帯端末の充電に電源コンセントが不可欠ですが、「つくし」が就航した2002年はいわゆるガラケーの時代なので、スマホほどの充電需要はなかったのでしょう。
 とはいえ鍵のかかるプライベートな空間を確保できるのはありがたいです。2等大部屋で一人旅だと、食事や風呂で部屋を離れる場合の荷物の管理が不安ですから。 
 この2等指定B洋室シングル、どうやらドライバーズルーム(長距離トラックなどの運転手向けの部屋)の一部を一般向けに販売してるようです。割り切った作りは何となく納得。

 六甲フェリーターミナル。一足先に大分行きの「さんふらわあ」が出港します。後を追うように5分差でこちらも出港。
 船内のレストランで夕食。カフェテリア方式で好きな小皿をプレートに乗せてレジへ持っていきます。
 明石海峡大橋と東経135度子午線の通過をデッキで眺めて、お風呂入って就寝。
# 瀬戸内海は波が静かですが、それでも一番上のデッキにあるお風呂は適度にお湯が動いて面白いです。

 明け方に目が覚めて、船内のモニタを見て愕然。
 え、まだ来島海峡越えてない? 到着が2時間遅れ!? 何が起こったの!!
 慌ててデッキに出て自分のスマホのGPSで現在地を確保すると、すでに伊予灘を航行中。船内の現在位置モニタに何かの不具合でGPSのデータの更新が止まっていたようです。ああ、びっくりした。
# さすがに2時間遅れると後の行程がしんどい。

 そんなこんなで未明のデッキに出たおかげで、船上から明けの明星を拝めました。
 よい朝です。

 船は定刻通りに新門司港に到着。
 新門司港から門司駅・小倉駅までは無料の送迎バスが運行されています。道路事情にもよるでしょうが、この日は小倉駅まで40分ほどで到着。いよいよ九州の旅が始まります。
posted by ふくだ at 23:45| Comment(0) | 地図と地理と遠出

2017年05月06日

新選組流山本陣・近藤勇陣屋跡

 幕末に京都で反幕府勢力の取締に活躍した新選組は、鳥羽・伏見の戦いのあと東国に撤退。甲州街道の抑えを命じられますが、1868年3月6日の甲州勝沼の戦いに敗れます。
 3月13・14日には勝海舟と西郷隆盛が会談を行い、旧幕府は恭順・江戸開城へ動きます。甲州から帰還した新選組は13日に江戸郊外の綾瀬に本拠を構えますが、抗戦派の諸隊は和睦交渉の妨げになると市中から遠ざけられたとの説もあります。

 新選組は4月1日に綾瀬を発ち、2日に流山に入ります。近藤勇を始めとする本隊は酒造家長岡屋へ(造り酒屋は蔵などあるので大人数を収容できました)、分隊は市内の寺院に分宿(お寺も大人数の宿泊に便利でした)。
 これが早くに新政府軍の知るところとなり、翌3日に戦闘となり、新選組は敗北して包囲されます。

 当時、大久保大和の変名を用いていた近藤は出頭して弁明に努めますが、身元が露見して捕らえられます。
 土方は釈放のために運動しますが、4月4日には旧幕府と新政府軍の開城交渉が成立しており、如何ともしがたい状況でした。
 土方を始めとする残党は6日に流山を離脱して12日に大鳥圭介の旧幕府軍に合流。宇都宮・会津・函館と戊辰戦争を転戦していきます。
 近藤勇は4月25日に板橋で斬首されました。

 わずか数日の滞在でしたが、近藤と土方の最後の別れになった地として、新選組の物語に欠かせぬ舞台です。

 帰省先からさほど遠いわけではないのですが、実家を起点とすると公共交通機関では大回りになる場所で、ついぞ足を運んだことがありませんでした。細い路地の傍らの何でもない場所に石碑があるのですが、訪れる人は多いようで、私が寄った日には観光ボランティアの方がガイドに立っていらっしゃいました。

 近くにある市立博物館には新選組と新政府軍の戦闘の様子を記した日記や、本陣の造り酒屋で使われていた階段が展示されています。ほんの数日立ち寄った新選組のためにご苦労様なことでございます。
posted by ふくだ at 23:45| Comment(0) | 地図と地理と遠出

2016年12月29日

さらば国土地理院VLBI32mアンテナ

 つくば市の国土地理院にあるつくばVLBIアンテナ。32m径の電波望遠鏡です。
 VLBIは複数の場所から同じ恒星を観測するものです。天文では高解像度の星のデータを取ることが出来ますが、国土地理院では測量に応用して、観測地点の地上の座標を割り出します。
 数千キロメートルの距離をミリメートル単位で測位できるため、プレートテクトニクスで大陸が動いていることを直接観測できてしまうほど。

 つくばの32m鏡は1998年に完成。国土地理院の主のような存在感を示しているので、もっと昔からあった気がするのですが、18年ものなので一昔は経過しています。
# 野辺山45m鏡が1981年、臼田64m鏡が1984年。

 国土地理院では既に後継のVLBIアンテナを茨城県石岡市内に建設し、2014年10月に完成。2015年2月から私見観測を開始、2016年5月から本格稼働してつくば局と並行してデータを取ってきました。
 石岡局のアンテナ径は13mと小型ですが、より広く高い周波数までカバーし、記録速度も256Mbpsから16Gbpsと桁違いに強化。24時間連続運用も可能と何から何まで新世代です。

 つくば局は2016年末で役割を終え、年明けからの解体が決まっています。
 長らく親しんだアンテナの姿を見るのも、今回が最後となります。

追記)年が明けたら本当にチャッチャと解体が始まって、もはやディッシュの跡形もない状態です。中途半端に放置されるより潔くてよいですけど。
 http://www.spacegeodesy.go.jp/vlbi/ja/antscan/index.php
posted by ふくだ at 23:45| Comment(0) | 地図と地理と遠出

2016年12月28日

一等三角点「東京(大正)」

 日本経緯度原点のそばに一等三角点「東京(大正)」があります。
 一等三角点は全国に975点あり(2010年時点)、東京にはそのうち14点が置かれています。
# ちなみに兵庫県は21点、茨城県は22点。最多は北海道の223点。

 もともと明治時代(1884年)に一等三角点「東京」が設置され、日本経緯度原点が置かれた1892年に廃止。その後1923年の関東大震災の復旧に際して改めて設置されたものです。点名に(大正)が付いているのは明治時代のものと区別するため。
# 参考:東京都の三角点

 かつては合同庁舎の敷地だったので自由に見学できましたが、現在はアフガニスタン大使館の敷地内となり、立ち入ることが出来ません。もしかすると今後、一般人が見学できる機会はほとんどないのでは。

 実は2002年に訪問したことがあり、当時は50cm角ほどだったかのコンクリートの穴に入っていて、フタもされていました。フタを開けると大きなヒキガエルが冬眠中で、慌てて閉めたのを覚えています。

 当時の写真があれば紹介しようと思ったのですが、まだデジカメに切り替える以前で、本棚の何処かにあるはずのミニアルバムの何処かに……ちょっと出てきそうにもありません。
posted by ふくだ at 23:46| Comment(0) | 地図と地理と遠出

日本経緯度原点

 東京都港区麻布台二丁目十八番一地内。ロシア大使館の裏手、アフガニスタン大使館の脇に日本経緯度原点があります。
 三鷹に移転する前に国立天文台(当時は東京天文台)があった場所で、天文台の子午環の跡が日本経緯度原点になっています。

 経度:東経 139度44分28秒8869
 緯度:北緯 35度39分29秒1572
 原点方位角:32度20分46秒209
※茨城県つくば市北郷1番地内つくば超長基線電波干渉計観測点金属標の十字の交点の方位角

 2002年に世界測地系へ移行した時に数値が改定され、2011年の東日本大震災後にも測量が行われ、再改定されました。
# 震災後の測量はGNSS(Global Navigation Satellite System / 全球測位衛星システム)ですから時代の流れです。

 私は2002年に訪ねたのですが、それ以来14年ぶり。
 東日本大震災で27cm東に動いたそうなので、それを実感……出来るわけはないのですが、それが分かる測量制度がすごいと思うのです。
posted by ふくだ at 23:45| Comment(0) | 地図と地理と遠出

2016年11月05日

興福寺から東大寺

 近鉄奈良駅から東向商店街を抜けて興福寺へ(ブラタモリ「奈良編」のルートです)。
 通りかかった北円堂で秋の一般公開が行われていました。同行の友人ともども見学していくことに。
 藤原不比等を供養するために建てられたもので、現在の建物は平重衡の兵火で焼けたのち、鎌倉時代に再建されたもの。興福寺の現存建物では最古のもので、国宝。中の仏像彫刻群が見事なものばかりで、特に無著菩薩・世親菩薩の立像は日本彫刻の白眉と言われています。お会いするのは三度目になるかなあ。

 再建が進められている中金堂(右写真)。平成30(2018)年完成予定で、朱塗りの柱が並んでいる姿が垣間見えました。

 興福寺から奈良公園を抜けて東大寺へ。
 目指すは三月堂。三月堂は南が正面ですが、夕暮れ時は西側の格子から陽がさして本堂の仏様を照らし出し、それはそれは見事なのです。

 が、微妙に到着が遅くなり、お堂の中は残り陽が差す程度の明るさになっていました。
 まあ、これはこれで落ち着いた雰囲気でよしということで。

 冬期の三月堂は16時30分で閉じられるのですが、私たちが到着したのは16時25分。
 係の人が「今から入っても少ししか見られませんよ」というのを「それでも見ます!」と拝観しました。
 そんな時間に来るお客さんが他にいるはずもなく、僅かな時間でしたが友人ともども貸し切りで堪能しました。

続きを読む
posted by ふくだ at 23:48| Comment(0) | 地図と地理と遠出

平城宮跡

 平城宮跡は学生の頃にサイクリングしながら立ち寄ったことがあります。
 当時は遺構を示す土壇や植え込みがある程度で、あとはひたすら広場が広がっているだけでしたが、後に朱雀門や大極殿が復元されました。奈良に向かう近鉄電車の中から見えるので、景色としては見慣れていましたが、足を運ぶのは実は再建後初めて。

 大極殿は住まいではなく儀式を行うための建物です。復元されたのは第一次大極殿で、後に聖武天皇が恭仁京に遷都したときに解体移築されました。発掘調査で明らかになったのは基壇と階段の跡だけで、柱の位置は恭仁京大極殿からの推定。建物も外観を描いた絵画資料などがないため、近い時代の寺社建築を参考に推定しています。確実なことは何も分からない中で推測を重ねて再現したというところ。

 大極殿の南面は吹きさらしだったそうですが、復元建物はガラス戸になっています。うーん。建物の保護のために必要なのかもしれないですけど、もう少し何とかならなかったものか。
 中には天皇の玉座である高御座が置かれています。こちらは京都御所にあるもの(大正天皇の即位の際に製作したもの)を参考に作ったとか。

 大極殿のある区画、大極殿院の周囲は築地塀で囲まれていました。現在は透かし窓のある塀が作られています。ずいぶん簡略化した印象ですが、当時の規模で築地塀を作ってしまうと視界が遮られて開放感がなくなってしまうので、これはこれで難しいところ。
 塀の切れ目から若草山と東大寺大仏殿の屋根が見えました。平城京は東の方が高台なので、大仏殿のほうが平城宮より標高が高い場所にあります。
posted by ふくだ at 23:45| Comment(0) | 地図と地理と遠出