2019年05月02日

天智天皇山科陵・弘文天皇長等山前陵

 天智天皇の陵墓は京都市山科区にあります。
 付近一帯が「御陵(みささぎ)」という地名で、京阪電車・京都市営地下鉄の御陵駅もありますから、古くから近代まで忘れることなく存在が伝えられてきたのでしょう。古代の天皇陵としては数少ない、埋葬者が確定している古墳に数えられています。

 天皇家の実権が失われると共に祭祀も途絶え、また平安時代以降は陵墓を作らない薄葬が主流となります(遺言で散骨された天皇もいます)。尊皇攘夷熱の高まる江戸時代後期には、多くの天皇陵が実態不明となっていて、現在伝えられる天皇陵は幕末から明治にかけて調査が行われ比定されたものです。もっとも当時の学問の限界もあり、いくつかの古墳はその後の考古学の見地から誤りが指摘されています。よく分からないまま、とりあえず比定せざるをえなかったものも多くあったのでしょう。

 天智天皇陵はその数少ない例外です。

 現在は三条通となっている旧東海道に面して入口があり、木立の中に400mほど、ほぼ直線に参道が伸びています。参道入口の脇に日時計があるのが、漏刻を設置した天智天皇らしいです。京都時計商組合創立20周年記念、1938年6月の建立と彫られていたので、この当時、既に時と天智天皇のつながりはある程度知られていたのでしょう。6月はもしかして時の記念日に合わせたものだったかもしれません。

 墳丘本体は当時の大王墓に使われた八角墳ですが、立ち入りできるのは墳丘のずっと手前で、木立の奥にある本体を見ることは出来ません。
 夕方18時頃の訪問でしたが、3〜4組の参詣者と行き違いました。木立の中の参道は散策路にも向いているのかもしれません。

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大津散歩

 世間は連休中で、遠出しても人混みに巻き込まれたらつらいし、かといって近場では気分転換にならないし、と、頭の中の地図とにらめっこして決めたのが大津でした。滋賀県の県庁所在地ながら、さんざん通過するばかりで、じっくり回ったことがありません。とはいえ京都に隣接するだけあって、歴史的な話題も豊富な場所です。

 たまたま有料座席「Aシート」をつないだ新快速が来たので、乗ってみました。
 一駅でも終点まででも、座席料500円。シートはおそらく在来線特急と同じもので、新幹線よりは座り心地がいい感じ。少し長めの距離でたまに使うのならよいかもしれません。

 山科駅で京阪大津線の一日乗車券を購入。
 びわ湖浜大津までは山越え区間で、ものすごい勾配だと後で調べたら再急勾配61‰。ここは碓氷峠かと思ったら、廃止された蹴上駅付近には66.7‰区間があったそうです。本当に碓氷峠並みです。
 S字カーブを描きながら勾配を下ると、いきなり路面電車の併用区間に突入します。地下鉄に乗り入れている4両編成が道路の上を走るのですから、これも奇妙な光景です。恐るべし京阪電車。

 終点の坂本比叡山口駅まで行ってみました。
 坂本は比叡山延暦寺の門前町であり、かつては明智光秀の坂本城がありました。2020年の大河ドラマを控えて、光秀のPRの幟旗が並んでいました。

 途中で通過した穴太駅。穴太の読みは「あのう」で、穴太衆と呼ばれる石垣技術者を輩出した地です。
 坂本辺りは見事な打ち込み接ぎの石垣が並んでいるのですが、寺社の石垣を築く中で身につけた技術が、やがて近世城郭の石垣に活かされたのだと言われています。

 大津市役所の裏手にある新羅善神堂(国宝)。三井寺の守護神の新羅明神を祀ったお堂で、名前からは朝鮮半島とのつながりを思い起こします。源義家の弟で、甲斐武田氏や常陸佐竹氏の祖となる源義光は、この社で元服したので「新羅三郎」の通称があります。

 大津市歴史博物館。
 再現模型をふんだんに使った常設展が濃くて楽しい。佐倉の国立歴史民俗博物館を思い起こす雰囲気。
 大津は京都の隣で歴史的事件に巻き込まれまくっているので、地域の歴史を概観しておくよい予習になります。 ちょっと坂道を登る場所ですが、琵琶湖の対岸まで見渡す景色も素敵。

 義仲寺は名前の通り木曽義仲の墓所のあるお寺で、小さな境内ながら国指定史跡になっています。
 義仲の墓の隣には、木曽義仲が大好きで、遺言で義仲の隣に葬るように頼んだ松尾芭蕉のお墓もあります。
 私のあとにやってきた男性が、芭蕉に思い入れがあるのか、長いこと芭蕉のお墓に手を合わせていたのが印象的でした。

 お寺の前の道は旧東海道。東はお江戸日本橋、西は京の三条大橋へと続きます。
 学生時代に自転車で前を通りかかったことがあるのですが、当時は早朝だったかで参拝かなわず。義仲寺は本で読んで知っていたのですが、ふいに視界に入ってきて「ここだったのか!」と強く印象に残っていました。

 国指定天然記念物・日本の地質百選の石山寺硅灰石。
 硅灰石は「珪灰石」と書くほうが一般的で、石灰岩に花崗岩などのマグマが貫入して形成されるものだそうです。石灰岩が熱変成を受けたら大理石になるものだとばかり思っていたので、「珪灰石ってなんだっけ」状態。
 本堂と多宝塔の間の岩場に看板が立っていますが、全部が石山寺硅灰石なのか、縞模様の何処かが石山寺硅灰石なのか、私にはよく分かりません。

 石山寺は大津市の南郊にあるお寺で、紫式部が源氏物語の着想をえたというエピソードで知られています。本堂の一角に紫式部が執筆にあたったという「源氏の間」があるのですが、はてさて。ただ京都からも遠すぎず、風光明媚な地なので、女官たちの程よい参詣地になっていたというのは納得です。
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瀬田の唐橋

 瀬田の唐橋は琵琶湖から流れ出る瀬田川の橋です。
 瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の川で、水量も多く、戦術的に京都の東の防衛線としての役割がありました。そのため、ここに架けられた瀬田の唐橋は古来、数々の戦乱の舞台となりました。

 壬申の乱 (東)大海人皇子○ vs ×大友皇子(西)
 藤原仲麻呂の乱 (東)吉備真備○ vs ×藤原仲麻呂(西)
 治承・寿永の乱 (東)源範頼○ vs ×木曽義仲(西)
 承久の乱 (東)武家方○ vs ×宮方(西)

 南北朝以降は数が多くてよくわかりません。
 だいたい西側に陣をおいた側が負けるのですが、これは瀬田まで進軍された時点で、戦略的な大勢が決していたことも大きいでしょう。
# 藤原仲麻呂の乱は橋の東にある近江国府を狙った仲麻呂軍を、朝廷側の吉備真備が瀬田橋を焼いて防戦した形。

 古くは現在の橋の90mほど下流で、古代の橋の遺構が発掘されています。大津市歴史博物館に復元模型が展示されていますが、おそらくは壬申の乱の当時に遡るものであろうとのこと。
 その後は流出や焼亡と再建を繰り返し、およそ現在の形に固まったのは織田信長の時代とされています。

 現在の橋は1979年に架け替えられたもので、鉄筋コンクリート造。欄干や擬宝珠が設けられ、古来の橋に似た意匠です。
 今でも南北1kmの範囲に、北から東海道本線、国道1号線、旧東海道(瀬田の唐橋)、東海道新幹線、名神高速道路と東西の大動脈が集中しています(地図写真は現地の案内板より)。
 通過する時はJRか新幹線か高速道路が多いので、唐橋をわたるのは先日MIHO MUSEUMによって以来ですが、その前となると学生時代にまでさかのぼってしまいます。

 ここより南は瀬田川の両岸は山ばかりの地形となり、再び開けた地形となるのは宇治橋のあたりとなります。こちらはこちらで多くの戦いの舞台となりますが、それはまた別のお話。
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近江大津宮錦織遺跡

 天智天皇による近江大津宮遷都のきっかけとなったのは、白村江の戦い(663年)でした。朝鮮半島の友好国だった百済が唐・新羅に攻められて滅亡し、その再興のために大和朝廷は援軍を派遣したのですが、白村江で大敗。
 東アジアの超大国・唐と敵対関係となった日本は外冠の危機にさらされ、北九州から瀬戸内沿岸の各地に迎撃用の城郭を築いたほか、都もより内陸の近江に移すことになります。

 近江大津宮への遷都は667年。
 大津「京」と言われることもありますが、日本で本格的な条坊制に基づく都市が建設されたのは藤原京とされており、近江大津宮も宮殿や官衙の整備に留まったと考えられます。
 672年に天智天皇が崩御すると、その半年後に壬申の乱が勃発。天智天皇の子の大友皇子と天智天皇の弟の大海人皇子が後継を巡って争いますが、大友皇子が敗北。勝者の大海人皇子は飛鳥浄御原宮に遷都し、近江大津宮はわずか5年で廃絶します。

 大津宮の所在地は長い間不明のままでしたが、1974年に内裏の南門とされる遺構が発掘され、その後の調査で内裏正殿の遺構も確認されました。
 京阪近江神宮前駅から近江神宮へ向かう南北の道が、ほぼ大津宮の中心線となっていて、住宅街の間に発掘調査で出土した遺構を公開する小公園が点在しています。
 大津宮の遺構が残っているのを知らなかったので、かつての宮跡を見ながら近江神宮へ向かうのは予想外の楽しみでした。
 左の写真が内裏南門跡、右の写真が大津宮の中心線と重なる道路です。
 ここから北側が天皇が暮らしていた内裏で、南に官庁である朝堂院が広がっていたことになります。ただ朝堂院の方はあまり発掘が行われていません。

 柱の跡には杭を埋め込んで位置がわかるようにしてあり、一線に並んだ柱列は内裏を囲む塀の跡と推定されています。


 内裏正殿まで確認されているのには驚きました。
 ここを中心とする一帯で天智天皇が生活していたということで、近江神宮へ向かう気分が盛り上がらないわけがありません。

 一帯が住宅地となっているので建替えなどしか調査の機会がないのですが、いずれどこかで飛鳥から移転したという漏刻の遺構もでるのではないかと、期待したくなります。
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近江神宮

 近江神宮は天智天皇を祀る神社で、1940年の紀元2600年に合わせて創建された神社です。
 天智天皇は大化の改新の中心人物で、皇太子の中大兄皇子時代から天皇中心の中央集権国家の確立に大きな役割を果たしました。667年に近江大津宮への遷都を行った、この地とのゆかりの深い人です。

 近江神宮はかつての大津宮の北端にあります。
 琵琶湖を東に望む斜面に建てられた朱塗りの楼門や檜皮葺の社殿は古風な雰囲気で、昭和時代の神社建築として国の登録有形文化財に指定。
 それと知らなければさぞかし昔から鎮座しているような雰囲気で、すっかり景観に溶け込んでいます。

 天智天皇は日本で最初に時計を設置した人物で、『日本書紀』には当時の水時計「漏刻」の記載が2つあります。

 一つ目は斉明天皇6(西暦660)年五月是月条。
又皇太子初造漏剋、使民知時。
又、皇太子、初めて漏剋を造り、民に時を知らしむ。
 もう一ヶ所は、天智天皇10(西暦671)年。
 夏四月丁卯朔辛卯、置漏剋於新台、始打候時。動鐘鼓、始用漏剋。此漏剋者天皇爲皇太子時、始親所製造也、云々。
 夏四月の丁卯朔の辛卯に、漏尅を新しき台に置く。始めて候時を打つ。鐘鼓を動す。始めて漏剋を用いる。此の漏剋は、天皇の皇太子に爲す時に、始めて親ら製造りたまふ所なりと、云々。
 まず皇太子時代の660年に漏刻を設置、これが現在の飛鳥水落遺跡です。その後、大津宮遷都後の671年に漏刻を新しい台に移して運用したことが記されています。飛鳥の記事は日付の記載がないのですが、大津は四月の丁卯朔の辛卯(4月25日)と記されており、現在の暦に直すと6月10日になることから、これを「時の記念日」としています。



 近江神宮では毎年6月10日に漏刻祭という神事を行い、舞楽が奉納されるほか、国内の時計メーカーからその年の新製品が奉納されています。2015年には明石市立天文科学館で再現イベントが行われたこともありました。

 境内には日時計2つと漏刻が置かれていて、また時計館宝物館という時計をテーマにした博物館もあります。水落遺跡や世界時のグリニッジ、日本標準時の明石の紹介もあり、和時計の数々や、変わったところでは宮家から贈られた懐中時計などなど。展示スペースが少し小さいのがもったいないくらい。

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2019年03月14日

東大寺二月堂修二会

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 東大寺二月堂修二会、2018年最後のお松明。
 
 修二会は3月14日の晩にすべての行が終わり、15日で満行を迎えます。
 二月堂本堂に練行衆が登る最後の夕方は、10本全てのお松明が舞台に並びます。

 和歌山にいった帰りに、少し回り道をして奈良に寄ってみました。
 二月堂前に着いたのは17時半頃。お松明の上がる時刻はふだんは19時頃ですが、最終日だけは少し早めの18時半頃。
 すでにお堂の下は人でいっぱいで立ち入りが規制されています。三月堂と四月堂の間の広場で時の過ぎるのを待ちます。

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 やがて周囲の明かりが消え、最初のお松明が上がります。
 舞台の端まで移動した後、2本め、3本目と次々とお松明が上り、舞台からは炎に照らされた煙がもうもうと立ち上ります。

 10本が揃い、童子の方々が松明を振ると、盛大に火の粉が舞い、大きな歓声が沸き起こります。
 そして最初のお松明から順に、舞台から引き上げていきます。
 いつも1本ずつ登場して退場するお松明を見ているだけに、10本が次々と去っていくのはあっという間に感じます。

 お松明が終わったあとも二月堂に参詣する人々が多く残り、列を作って舞台の片付けを待ちます。
 お堂の廻りの張り詰めた空気も、最終日とあってか少しばかり緩んだ雰囲気。
 二月堂の北側にある休憩所はいつもは夕方に閉まるのですが、この日は夜も開放され、温かいうどんが提供されています。たまたま相席された方は福島からいらしたとのことで、東国の者同士、話も弾みます。

 二月堂の局はいっぱいになっているかと思ったのですが、北側の局は余裕があるようなので、行法を聴聞させて頂きました。
 暗い堂内に浮かぶほのかに照らされた内陣、響き渡る声明。
 日によって行の内容が違うのか、南無観の声の重なりも前に聞いたものとは違う旋律に聞こえます。

20時過ぎた東大寺の境内は、昼間の賑わいが嘘のように静かで、帰路に通った南大門も一人、仁王様にお見送りです。
 修二会が終わるといよいよ春がやってきます。とはいえ、まだまだ肌寒い日は多いのですけど。
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2019年03月07日

東大寺二月堂修二会

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 東大寺二月堂修二会のお松明を見てきました。
 「お水取り」の名で二月堂の回廊に高々と大きな松明を掲げる様子が知られていますが、いずれも3月1日から14日の間に行われる「修二会」という行法の一部です。大きな松明は行を務める練行衆と呼ばれる僧を二月堂に導くためのもの。お水取りは3月12日の晩に観音様に備える水を二月堂下の井戸から組む行事で、この日の夕方のお松明はひときわ大きなものが使われることから、名が知られるようになったものかと思います。

 修二会の期間中はお水取りの日以外も、毎夕方に練行衆を先導するお松明が一本ずつ上がります。普段の日は10本、お水取りの日だけは大きな松明が11本、最終日の14日は10本の松明が一度に回廊に並ぶそうです。
 通常の松明でも重さは40〜50kg、お水取りの日は80kgと言いますから、相当なもの。足元を照らすだけならこれほど大きくなくてもよいはずですが、どうしてこうなった。

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 練行衆の方々は階段を登ったところでお堂に入るので、お松明はそこで道案内の役目を終えるのですが、見せ場はむしろここから。
 お松明を持った童子(役名は童子ですが大人が務めます)が舞台に出ると、ひときわ高くお松明を掲げ、ぐぐっと前に突き出します。火の粉とともに吹き上がる炎と沸き上がる歓声。
 くるくるとお松明が回ると豪勢に火の粉が舞い飛び、うわぁと歓声が大きくなります。

20190307shunie115.jpg お松明が舞台を横切る様子は童子の方々それぞれの個性があります。
 ゆっくり慎重に歩みを進める人。
 炎を上げながら走り抜ける人。
 松明を回し火の粉を散らしながら進む人。
 派手な立ち回りこそ沸きますが、勢い余ってお松明の頭の部分が落ちてしまうこともあります。
 中には舞台の上で転んでしまう人も。
 そうなると慎重に進むお松明の姿もまた、静の魅力があるのだと気付きます。

 お松明の灯が消えると一斉に、夕方遅い時間ということもあり、ほとんどの観客が帰途についていきます。
 立ち入りが規制されていた二月堂も、お松明の片付けが終わると再びお参りできるようになります。

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2018年10月30日

二月堂界隈

 東大寺ミュージアムへ寄ろうと思っていたのですが、正倉院まで行ってしまったので、ミュージアムは次の機会に回して、二月堂へ向かいます。奈良でもいちばん好きな景色、二月堂裏参道を登っていきます。

 休憩しようと四月堂脇のお茶屋さんを覗きますが、この日はすでに店じまい。
 そのまま手向山八幡宮まで足を伸ばして参拝して引き返します。

 三月堂。不空羂索観音と日光菩薩・月光菩薩が有名でしたが、日光・月光菩薩は元は他のお堂にあったことが判明し、修復工事のあとは東大寺ミュージアムに移されています。三月堂の中は本来のスッキリした姿になったのですが、私は以前の仏さまが林立するゴチャゴチャした姿も好きでした。当時たまたま夕暮れ時に拝観したことがあって、夕日が差し込んで黄金色に染まった仏さまたちの光景が忘れられません。
 今回も夕暮れ時だったので、どうしようかなと思ったのですが、思い出は思い出のままにしておきました。

 さて二月堂。
 江戸時代に火災で消失しての再建。最近国宝に指定されました。
 西向きに開けた舞台からは、奈良の町並みを一望のもとに眺めることができます。
 ここからの夕暮れが好きで、奈良の夕方はここで過ごすことが多いです。

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正倉院外構

 正倉院は東大寺の倉庫でしたが、明治初期に皇室に献上され、現在は宮内庁の管轄下になっています。
 ログハウスのような寄せ木の校倉造りで知られるのは「正倉院正倉」で、国宝建造物。中の宝物は昭和時代に建てられた空調完備の「東宝庫」「西宝庫」に移されています。

 正倉の中に入ることはできないのですが、建物の外観だけ見学することができます。期間は平日(年末年始除く)の10時から15時と、なかなかハードルが高いのですが、正倉院展の期間中は16時まで延長されるので見に行ってきました。

 正倉の東から見ることになるので、午後は逆光になり、写真を撮るのはちょっと大変。
 間近に見るのは初めてだったか、以前に一度見たけど記憶が定かで無いのか、ちょっとあいまい(なんか見たことあるような気はするのですけど)。実は柵の外から正倉が見えるポイントがあるので、姿だけは何度か見てるんですよね。

 私の子どもの頃の国語の教科書だったか、正倉院の校倉造りは湿気に応じて木材が収縮して風通しが変わり、中の宝物を守っているという話が載っていたのですが、現在は否定されています。なにせ超重量物の瓦屋根が載っているので、木材が収縮する余地が無いのだとか。言われてみれば当たり前ですが、何となくの思い込みが流布されて広まるのは、今も昔も変わらないのだなと。

 ところで正倉院の南側に少し離れて建つ建物。ちょっと不思議な雰囲気なので寄ってみたら、皇宮警察でした。平安装束の武官か薙刀もった僧兵が出てきそうです。うむ、ここは僧兵でお願いしたい。
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興福寺中金堂

 300年ぶりに再建なった興福寺中金堂を拝観してきました。
 興福寺は創建以来、たびたび火災と再建を繰り返してきましたが、お寺の中心となる中金堂は1717年の火災で焼けて以来、仮堂こそ建てられましたが、本格的な再建はなされないままでした。2010年に再建に着手し、このたび2018年10月に落慶したものです。

 建物は天平時代の創建時を想定したもので、朱塗りの柱の鮮やかな建物です。
 本来は回廊と中門が接続している部分は現在は基壇と礎石だけ復元されていて、その分の空間は広大に広がっているのですが、寺院の中核となる建物がよみがえったことで、興福寺全体が引き締ったように思えます。「信仰の動線がない」と言われていたかつての姿を思い出すのも難しいくらい。

 本堂の内部には江戸時代に作られた本尊の釈迦如来と、国宝の四天王、重文の薬王菩薩・薬上菩薩が置かれています。
 興福寺は何度も焼けたので、仏像もいろんなお堂を行き来しているのですが、今回の再建中金堂に置かれた仏像も他のお堂から移したもの。もちろん適当に選んだわけではなく、由緒由縁を考慮して移されています。
 お堂が大きいぶん内部も広いので、置かれている仏像とのバランスが微妙に合わない感じがするのですが、これもそのうち馴染むのかもしれません。

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