2019年05月30日

今城塚古墳

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 今城塚古墳は大阪府高槻市の北郊にある前方後円墳で、墳丘の長さは190m。二重の堀に囲まれ、淀川流域では2番目に大きな前方後円墳です(1位は太田茶臼山古墳)。学術的にはこちらを実際の継体天皇陵とするのが定説になっています。

 継体天皇は6世紀初頭に即位した天皇(在位507-531年)で、実在と系譜が確実な最初の大王と言われています。それ以前の天皇は伝説上の存在だったり、実在しても系譜が曖昧だったり、分からないことが多いのです。
 継体天皇は応神天皇の5世の孫(ひ孫のさらに孫)で、それまでの天皇家の血筋が途絶えたために迎えられたとされています。5代も遡ると百年以上前に分家した筋で、ずいぶん「遠い親戚」です。このため王朝交代が起こったのではないかという説もあるほどです。それまで和泉平野の百舌鳥・古市古墳群に営まれてきた大王墓が、淀川流域に建設されるのも異例。
# 近い時代では徳川将軍家の8代吉宗が紀州家から宗家に入りましたが、これでも家康の3世の孫(ひ孫)です。

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 戦前には既に今城塚古墳こそ真の継体陵とする説が発表されていましたが、宮内庁は陵墓参考地にすることすらないまま、現在に至っています。もっともそのお陰で高槻市による発掘調査が継続的に行われ、2011年には史跡公園としての整備が終わって一般公開されました。墳丘にまで入れる大王墓は他に例がない貴重な存在です。

 二重の周濠のうち、内堀は水堀、外堀は空堀でした。現在は内堀の前方部だけ水が湛えられ、外堀と後円部の内堀は芝生が貼られて自由に散策できるようになっています。

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 今城塚古墳の特徴は、外堀と内堀を仕切る堤の上に大きな埴輪祭祀場が見つかったこと。現在はレプリカの埴輪で当時の様子を復元しています。
 精巧な形象埴輪の群れは大王の葬列を再現したものとも言われています。

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 誰でも登れる大王墓を楽しみにしていたのですが、なんと墳丘は立入禁止。2018年の台風と地震で被害を受け、まだ復旧が終わっていないのだそうです。残念ですが仕方ありません。ここまで来て何というオチだ。

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 今城塚古墳は名前の通り、中世には城郭として利用されたと伝えられています。
 1596年の慶長伏見地震で墳丘のあちこちが地すべりを起こして崩壊する大きな被害を受け、江戸時代は畑作地になっていました。見ての通り、前方後円墳の平面こそ残っていますが、墳丘は原型を留めないほど崩れています。
 近隣の太田茶臼山古墳は原型を留めて残ったので、後世そちらが継体天皇陵と目されたのも、当時としてはやむを得ない判断だったかもしれません。

 周濠部まではきれいに整備したのに墳丘を復元しないのはどうしてなのかと思っていたのですが、古墳は外形だけでなく、土の盛り方まで含めて文化財。手を加えすぎてしまうと地震でダメージを受けた状態といえどもオジリナルの構造を失うことになります。
 諸事情を勘案して、墳丘部については現状を保存するという選択をされたのでしょう。
# 掲載した地図はカシミール3Dスーパー地形セット/国土地理院標高データより作成

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太田茶臼山古墳(伝継体天皇陵)

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 太田茶臼山古墳は大阪府茨木市にある前方後円墳で、墳丘の長さは226m、全国で21番目の規模の古墳です。
 墳丘長200m前後の古墳は数も増えてきて、例えば194mの神戸の五色塚古墳は全国でも40位前後となり、数mの違いで大きく順位が変わってきます。

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 宮内庁は継体天皇陵としていますが、古墳の築造年代は、墳丘の形状や周辺で出土した埴輪などから5世紀半ば(450年頃)と推定され、531年とされる継体天皇の没年とは80年もの差が開いています。近くにある今城塚古墳は築造年代が6世紀前半とされていて、こちらが本当の継体天皇陵というのが現在の定説になっています。

 現在指定されている天皇陵は江戸時代後半から明治にかけて比定されたもので、考古学の未発達な時期に文献と実地調査で調べたものです。当時の限界からやむをえぬこととはいえ、現在の学術的水準からは疑問符がつくものが多いのが現状です。

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 古墳の南側の前方部正面に天皇陵としての拝所があります。ただここからは堀の向こうにこんもりした丘が見えるだけで、前方後円墳の全貌は伺えません。古墳の南東側に周濠の外周に接した道路があり、ここから古墳の形を観察できます。原型をよく保っている古墳で、端正な姿を(想像力を働かせて)見ることが出来ます。

20190530takatsuki045.jpg 太田茶臼山古墳は淀川中流域に初めて出現した巨大古墳で、古市古墳群のいくつかの古墳と同じ形を持つことから、当時の王権と関わりの深い人物が埋葬されていると考えられています。

 太田茶臼山古墳の周囲には陪塚が複数あり、そのうちの一つが古墳の直ぐ側の公園にあります。こうした陪塚も大王墓に特徴的なもので、江戸や明治の人々が天皇陵に比定した気持ちも分からなくはありません。
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史跡新池埴輪製作遺跡

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 高槻市の北郊に史跡新池埴輪製作遺跡があります。「ハニワ工場公園」の名で公園として整備されています。斜面を利用した登り窯が18基発見されていて、近隣の今城塚古墳や太田茶臼山古墳の埴輪を製造していました。

 18基のうち2基の窯が復元されています。また発掘後に埋め戻された窯は植え込みでその位置を示しています。

 年代的には、復元された2基を含む3基の窯が450年頃につくられ、太田茶臼山古墳の埴輪を製造。
 のち5世紀のうちに5基の窯がつくられ、付近につくられた古墳の埴輪を断続的に製造。
 530年頃に10基の窯が作られ、今城塚古墳の埴輪を製造。その後、同古墳築造の終了とともに埴輪造り終了。

 ということで、およそ100年近くに渡って埴輪を製造し続けた、今で言えば工業団地的な村でした。
 
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 いちばん北端にある18号窯は発掘した現場を覆屋で保護して、そのまま見学できるようになってます。断面がミルフィーユのように色の違う土が重なっているのが見えたので、版築で土台を作ったのかと思ったら、焼けた土の層が何層も積み重なっているのだそうです。使っているうちに底が埋まって、何度も改築が繰り返されたのでしょう。

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 遺跡の上部には工房跡とされる3棟の大きな建物跡が見つかり、うち2棟が復元されています。これらは初期の太田茶臼山古墳の時代に使われたもので、今城塚古墳の頃には村人の住居で作業していたことが分かっています。
 右写真は復元された登り窯を上部から見たもので、煙出の穴が見えています。

 今城塚古墳だけで6000基以上の円筒形埴輪が使われたと推定されています。重量物の埴輪を1km以上運ぶのも大変なら、そもそもそれだけの埴輪を作る粘土も燃料の薪も、相当な量が消費されたはずです。
 巨大古墳の築造が一大プロジェクトである一端を垣間見ることが出来ます。
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2019年05月23日

近つ飛鳥風土記の丘

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 近つ飛鳥博物館は近つ飛鳥風土記の丘の中にあります。
 ここは一須賀古墳群を史跡公園として整備したもので、園内には102基の古墳があり、うち40基が遊歩道のそばに公開されています。もともとは200基ほどの古墳があったのですが、住宅造成で失われ、中心部を大阪府が買い上げて整備したものです。よくぞ残してくれたものだと思います。

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 一須賀古墳群は6世紀中頃から7世紀前半にかけて築造された群集墳で、大半は直径10〜20メートル程度の円墳。10メートルと聞くと大きいようですが、浸食などで墳丘の大部分は失われ、山の斜面や稜線にあるので、分かりにくいものも多いです。石室が露出しているものも多く、それで古墳と分かるような状態。
 中にはこんもりとした盛り土の真ん中が凹んでいるだけで、もしかしてこれ石室の跡かとようやく分かるようなものも。

 それにしても墳丘は周りの土砂を利用して築けばよいとして、石室の石材は麓から運び上げるしかないわけで、どれだけの労力を注ぎ込んだものかと思います。

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 一須賀古墳群中最大級のD4号墳。直径25m、高さ2.3mの円墳で大きな横穴式石室が完存していて、中に入ることが出来ます。この日は5月にしては暑い日でしたが、石室の中はひんやり。石材はどうも花崗岩のようでしたが、どこから運んできたのやら。

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 近つ飛鳥風土記の丘には二箇所の展望台があります。第二展望台からは聖徳太子陵や推古天皇陵の方角が見えるのですが、枝葉が生い茂ってよくわからず。でも王陵の谷と呼ばれる、飛鳥時代初期の王墓が密集する里の雰囲気は伝わってきます。
 第一展望台からは遠く堺の大仙陵古墳まで見えるそうですが、こちらはモヤでよく分からず。あべのハルカスや大阪市街のビル群は見えているので、見晴らしがよいのは確かなのですけれども。
 眺めについては秋冬のほうが楽しめそうです。
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2019年05月02日

天智天皇山科陵・弘文天皇長等山前陵

 天智天皇の陵墓は京都市山科区にあります。
 付近一帯が「御陵(みささぎ)」という地名で、京阪電車・京都市営地下鉄の御陵駅もありますから、古くから近代まで忘れることなく存在が伝えられてきたのでしょう。古代の天皇陵としては数少ない、埋葬者が確定している古墳に数えられています。

 天皇家の実権が失われると共に祭祀も途絶え、また平安時代以降は陵墓を作らない薄葬が主流となります(遺言で散骨された天皇もいます)。尊皇攘夷熱の高まる江戸時代後期には、多くの天皇陵が実態不明となっていて、現在伝えられる天皇陵は幕末から明治にかけて調査が行われ比定されたものです。もっとも当時の学問の限界もあり、いくつかの古墳はその後の考古学の見地から誤りが指摘されています。よく分からないまま、とりあえず比定せざるをえなかったものも多くあったのでしょう。

 天智天皇陵はその数少ない例外です。

 現在は三条通となっている旧東海道に面して入口があり、木立の中に400mほど、ほぼ直線に参道が伸びています。参道入口の脇に日時計があるのが、漏刻を設置した天智天皇らしいです。京都時計商組合創立20周年記念、1938年6月の建立と彫られていたので、この当時、既に時と天智天皇のつながりはある程度知られていたのでしょう。6月はもしかして時の記念日に合わせたものだったかもしれません。

 墳丘本体は当時の大王墓に使われた八角墳ですが、立ち入りできるのは墳丘のずっと手前で、木立の奥にある本体を見ることは出来ません。
 夕方18時頃の訪問でしたが、3〜4組の参詣者と行き違いました。木立の中の参道は散策路にも向いているのかもしれません。

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大津散歩

 世間は連休中で、遠出しても人混みに巻き込まれたらつらいし、かといって近場では気分転換にならないし、と、頭の中の地図とにらめっこして決めたのが大津でした。滋賀県の県庁所在地ながら、さんざん通過するばかりで、じっくり回ったことがありません。とはいえ京都に隣接するだけあって、歴史的な話題も豊富な場所です。

 たまたま有料座席「Aシート」をつないだ新快速が来たので、乗ってみました。
 一駅でも終点まででも、座席料500円。シートはおそらく在来線特急と同じもので、新幹線よりは座り心地がいい感じ。少し長めの距離でたまに使うのならよいかもしれません。

 山科駅で京阪大津線の一日乗車券を購入。
 びわ湖浜大津までは山越え区間で、ものすごい勾配だと後で調べたら再急勾配61‰。ここは碓氷峠かと思ったら、廃止された蹴上駅付近には66.7‰区間があったそうです。本当に碓氷峠並みです。
 S字カーブを描きながら勾配を下ると、いきなり路面電車の併用区間に突入します。地下鉄に乗り入れている4両編成が道路の上を走るのですから、これも奇妙な光景です。恐るべし京阪電車。

 終点の坂本比叡山口駅まで行ってみました。
 坂本は比叡山延暦寺の門前町であり、かつては明智光秀の坂本城がありました。2020年の大河ドラマを控えて、光秀のPRの幟旗が並んでいました。

 途中で通過した穴太駅。穴太の読みは「あのう」で、穴太衆と呼ばれる石垣技術者を輩出した地です。
 坂本辺りは見事な打ち込み接ぎの石垣が並んでいるのですが、寺社の石垣を築く中で身につけた技術が、やがて近世城郭の石垣に活かされたのだと言われています。

 大津市役所の裏手にある新羅善神堂(国宝)。三井寺の守護神の新羅明神を祀ったお堂で、名前からは朝鮮半島とのつながりを思い起こします。源義家の弟で、甲斐武田氏や常陸佐竹氏の祖となる源義光は、この社で元服したので「新羅三郎」の通称があります。

 大津市歴史博物館。
 再現模型をふんだんに使った常設展が濃くて楽しい。佐倉の国立歴史民俗博物館を思い起こす雰囲気。
 大津は京都の隣で歴史的事件に巻き込まれまくっているので、地域の歴史を概観しておくよい予習になります。 ちょっと坂道を登る場所ですが、琵琶湖の対岸まで見渡す景色も素敵。

 義仲寺は名前の通り木曽義仲の墓所のあるお寺で、小さな境内ながら国指定史跡になっています。
 義仲の墓の隣には、木曽義仲が大好きで、遺言で義仲の隣に葬るように頼んだ松尾芭蕉のお墓もあります。
 私のあとにやってきた男性が、芭蕉に思い入れがあるのか、長いこと芭蕉のお墓に手を合わせていたのが印象的でした。

 お寺の前の道は旧東海道。東はお江戸日本橋、西は京の三条大橋へと続きます。
 学生時代に自転車で前を通りかかったことがあるのですが、当時は早朝だったかで参拝かなわず。義仲寺は本で読んで知っていたのですが、ふいに視界に入ってきて「ここだったのか!」と強く印象に残っていました。

 国指定天然記念物・日本の地質百選の石山寺硅灰石。
 硅灰石は「珪灰石」と書くほうが一般的で、石灰岩に花崗岩などのマグマが貫入して形成されるものだそうです。石灰岩が熱変成を受けたら大理石になるものだとばかり思っていたので、「珪灰石ってなんだっけ」状態。
 本堂と多宝塔の間の岩場に看板が立っていますが、全部が石山寺硅灰石なのか、縞模様の何処かが石山寺硅灰石なのか、私にはよく分かりません。

 石山寺は大津市の南郊にあるお寺で、紫式部が源氏物語の着想をえたというエピソードで知られています。本堂の一角に紫式部が執筆にあたったという「源氏の間」があるのですが、はてさて。ただ京都からも遠すぎず、風光明媚な地なので、女官たちの程よい参詣地になっていたというのは納得です。
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瀬田の唐橋

 瀬田の唐橋は琵琶湖から流れ出る瀬田川の橋です。
 瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の川で、水量も多く、戦術的に京都の東の防衛線としての役割がありました。そのため、ここに架けられた瀬田の唐橋は古来、数々の戦乱の舞台となりました。

 壬申の乱 (東)大海人皇子○ vs ×大友皇子(西)
 藤原仲麻呂の乱 (東)吉備真備○ vs ×藤原仲麻呂(西)
 治承・寿永の乱 (東)源範頼○ vs ×木曽義仲(西)
 承久の乱 (東)武家方○ vs ×宮方(西)

 南北朝以降は数が多くてよくわかりません。
 だいたい西側に陣をおいた側が負けるのですが、これは瀬田まで進軍された時点で、戦略的な大勢が決していたことも大きいでしょう。
# 藤原仲麻呂の乱は橋の東にある近江国府を狙った仲麻呂軍を、朝廷側の吉備真備が瀬田橋を焼いて防戦した形。

 古くは現在の橋の90mほど下流で、古代の橋の遺構が発掘されています。大津市歴史博物館に復元模型が展示されていますが、おそらくは壬申の乱の当時に遡るものであろうとのこと。
 その後は流出や焼亡と再建を繰り返し、およそ現在の形に固まったのは織田信長の時代とされています。

 現在の橋は1979年に架け替えられたもので、鉄筋コンクリート造。欄干や擬宝珠が設けられ、古来の橋に似た意匠です。
 今でも南北1kmの範囲に、北から東海道本線、国道1号線、旧東海道(瀬田の唐橋)、東海道新幹線、名神高速道路と東西の大動脈が集中しています(地図写真は現地の案内板より)。
 通過する時はJRか新幹線か高速道路が多いので、唐橋をわたるのは先日MIHO MUSEUMによって以来ですが、その前となると学生時代にまでさかのぼってしまいます。

 ここより南は瀬田川の両岸は山ばかりの地形となり、再び開けた地形となるのは宇治橋のあたりとなります。こちらはこちらで多くの戦いの舞台となりますが、それはまた別のお話。
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近江大津宮錦織遺跡

 天智天皇による近江大津宮遷都のきっかけとなったのは、白村江の戦い(663年)でした。朝鮮半島の友好国だった百済が唐・新羅に攻められて滅亡し、その再興のために大和朝廷は援軍を派遣したのですが、白村江で大敗。
 東アジアの超大国・唐と敵対関係となった日本は外冠の危機にさらされ、北九州から瀬戸内沿岸の各地に迎撃用の城郭を築いたほか、都もより内陸の近江に移すことになります。

 近江大津宮への遷都は667年。
 大津「京」と言われることもありますが、日本で本格的な条坊制に基づく都市が建設されたのは藤原京とされており、近江大津宮も宮殿や官衙の整備に留まったと考えられます。
 672年に天智天皇が崩御すると、その半年後に壬申の乱が勃発。天智天皇の子の大友皇子と天智天皇の弟の大海人皇子が後継を巡って争いますが、大友皇子が敗北。勝者の大海人皇子は飛鳥浄御原宮に遷都し、近江大津宮はわずか5年で廃絶します。

 大津宮の所在地は長い間不明のままでしたが、1974年に内裏の南門とされる遺構が発掘され、その後の調査で内裏正殿の遺構も確認されました。
 京阪近江神宮前駅から近江神宮へ向かう南北の道が、ほぼ大津宮の中心線となっていて、住宅街の間に発掘調査で出土した遺構を公開する小公園が点在しています。
 大津宮の遺構が残っているのを知らなかったので、かつての宮跡を見ながら近江神宮へ向かうのは予想外の楽しみでした。
 左の写真が内裏南門跡、右の写真が大津宮の中心線と重なる道路です。
 ここから北側が天皇が暮らしていた内裏で、南に官庁である朝堂院が広がっていたことになります。ただ朝堂院の方はあまり発掘が行われていません。

 柱の跡には杭を埋め込んで位置がわかるようにしてあり、一線に並んだ柱列は内裏を囲む塀の跡と推定されています。


 内裏正殿まで確認されているのには驚きました。
 ここを中心とする一帯で天智天皇が生活していたということで、近江神宮へ向かう気分が盛り上がらないわけがありません。

 一帯が住宅地となっているので建替えなどしか調査の機会がないのですが、いずれどこかで飛鳥から移転したという漏刻の遺構もでるのではないかと、期待したくなります。
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近江神宮

 近江神宮は天智天皇を祀る神社で、1940年の紀元2600年に合わせて創建された神社です。
 天智天皇は大化の改新の中心人物で、皇太子の中大兄皇子時代から天皇中心の中央集権国家の確立に大きな役割を果たしました。667年に近江大津宮への遷都を行った、この地とのゆかりの深い人です。

 近江神宮はかつての大津宮の北端にあります。
 琵琶湖を東に望む斜面に建てられた朱塗りの楼門や檜皮葺の社殿は古風な雰囲気で、昭和時代の神社建築として国の登録有形文化財に指定。
 それと知らなければさぞかし昔から鎮座しているような雰囲気で、すっかり景観に溶け込んでいます。

 天智天皇は日本で最初に時計を設置した人物で、『日本書紀』には当時の水時計「漏刻」の記載が2つあります。

 一つ目は斉明天皇6(西暦660)年五月是月条。
又皇太子初造漏剋、使民知時。
又、皇太子、初めて漏剋を造り、民に時を知らしむ。
 もう一ヶ所は、天智天皇10(西暦671)年。
 夏四月丁卯朔辛卯、置漏剋於新台、始打候時。動鐘鼓、始用漏剋。此漏剋者天皇爲皇太子時、始親所製造也、云々。
 夏四月の丁卯朔の辛卯に、漏尅を新しき台に置く。始めて候時を打つ。鐘鼓を動す。始めて漏剋を用いる。此の漏剋は、天皇の皇太子に爲す時に、始めて親ら製造りたまふ所なりと、云々。
 まず皇太子時代の660年に漏刻を設置、これが現在の飛鳥水落遺跡です。その後、大津宮遷都後の671年に漏刻を新しい台に移して運用したことが記されています。飛鳥の記事は日付の記載がないのですが、大津は四月の丁卯朔の辛卯(4月25日)と記されており、現在の暦に直すと6月10日になることから、これを「時の記念日」としています。



 近江神宮では毎年6月10日に漏刻祭という神事を行い、舞楽が奉納されるほか、国内の時計メーカーからその年の新製品が奉納されています。2015年には明石市立天文科学館で再現イベントが行われたこともありました。

 境内には日時計2つと漏刻が置かれていて、また時計館宝物館という時計をテーマにした博物館もあります。水落遺跡や世界時のグリニッジ、日本標準時の明石の紹介もあり、和時計の数々や、変わったところでは宮家から贈られた懐中時計などなど。展示スペースが少し小さいのがもったいないくらい。

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2019年03月14日

東大寺二月堂修二会

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 東大寺二月堂修二会、2018年最後のお松明。
 
 修二会は3月14日の晩にすべての行が終わり、15日で満行を迎えます。
 二月堂本堂に練行衆が登る最後の夕方は、10本全てのお松明が舞台に並びます。

 和歌山にいった帰りに、少し回り道をして奈良に寄ってみました。
 二月堂前に着いたのは17時半頃。お松明の上がる時刻はふだんは19時頃ですが、最終日だけは少し早めの18時半頃。
 すでにお堂の下は人でいっぱいで立ち入りが規制されています。三月堂と四月堂の間の広場で時の過ぎるのを待ちます。

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 やがて周囲の明かりが消え、最初のお松明が上がります。
 舞台の端まで移動した後、2本め、3本目と次々とお松明が上り、舞台からは炎に照らされた煙がもうもうと立ち上ります。

 10本が揃い、童子の方々が松明を振ると、盛大に火の粉が舞い、大きな歓声が沸き起こります。
 そして最初のお松明から順に、舞台から引き上げていきます。
 いつも1本ずつ登場して退場するお松明を見ているだけに、10本が次々と去っていくのはあっという間に感じます。

 お松明が終わったあとも二月堂に参詣する人々が多く残り、列を作って舞台の片付けを待ちます。
 お堂の廻りの張り詰めた空気も、最終日とあってか少しばかり緩んだ雰囲気。
 二月堂の北側にある休憩所はいつもは夕方に閉まるのですが、この日は夜も開放され、温かいうどんが提供されています。たまたま相席された方は福島からいらしたとのことで、東国の者同士、話も弾みます。

 二月堂の局はいっぱいになっているかと思ったのですが、北側の局は余裕があるようなので、行法を聴聞させて頂きました。
 暗い堂内に浮かぶほのかに照らされた内陣、響き渡る声明。
 日によって行の内容が違うのか、南無観の声の重なりも前に聞いたものとは違う旋律に聞こえます。

20時過ぎた東大寺の境内は、昼間の賑わいが嘘のように静かで、帰路に通った南大門も一人、仁王様にお見送りです。
 修二会が終わるといよいよ春がやってきます。とはいえ、まだまだ肌寒い日は多いのですけど。
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