三好長慶が本拠をおいた芥川山城を訪問しました。
戦国時代の山城で、続日本100名城にも選定されています。
芥川山城は永正年間(1520頃)に、室町幕府の管領・細川高国が築城したと伝えられています。細川高国は応仁の乱の東軍の総帥・細川晴元の孫の世代に当たります。一時は室町幕府を牛耳った細川氏も、高国の代は内輪揉めが続き、徐々に影響力を失っていく時期でした。
歴史的には三好長慶が1553(天文22)年から約7年間在城しました。
三好長慶は阿波の三好家の出で、細川氏の重臣ですが、全盛期は室町幕府を掌握し、畿内一体を勢力下に置いていました。近年は信長以前の「天下人」として再評価されつつあります。戦国期の「天下」は全国を示す言葉ではなく、室町将軍の影響力の及ぶ畿内とその周辺を意味していたので、三好長慶は名実ともに天下人でした。
惜しむらくは三好長慶、1564年に43歳の若さで世を去ってしまいます。長慶の勢力がもう少し長く続いていれば、織田信長の台頭も少し違う形になったかもしれません。
# 桶狭間の戦いが1560年で、長慶が没した頃の信長は美濃攻略へ向けて一進一退の状況でした。
芥川山城が続日本100名城に選定されたのは2017年。
「芥川山城」は後世の命名で、当時の史料には「芥川城」と記されています。高槻市内には平地に「芥川城」が別にあり、区別のために山城の方を芥川山城と呼んだのが定着してしたもの。
1990年代以降に高槻市が何度も発掘調査を行い、芥川山城が文献上の芥川城であることが確定しました。良好な山城遺構であることと、三好政権の本拠地であることが評価されての続日本100名城選定だと思います。
それまでは知る人ぞ知る存在だった芥川山城がそれなりに知られる存在となり、城跡の藪や灌木の刈払や道標の整備が進められています。かつては「道が分かりにくい」と言われていたようですが、現在はほとんど迷うことなく山上に向かうことが出来ます。
ちなみに芥川山城のある山は三好山と呼ばれています。戦国当時の呼称ではなく、後世に三好氏の治世を偲んで名付けられたのでしょう。
芥川山城のある三好山は、北・西・南の三方を摂津峡の急崖に囲まれた要害の地。南に大手が開かれていますが、尾根続きの東に向かって防御ラインが構築されています。
東側のエリアは曲輪の段差も低く、見た感じでは後から増築したような雰囲気(推測)。
左の写真は櫓台のような土盛り、右の写真は曲輪を囲む土塁。
今回、星仲間の @teaeye_kotoriさんと@caffe_pepeさんとご一緒したのですが、「この辺がお城の遺構ですね、周りに比べて高くなってますよね」と言ってもキョトンとされてました。事前に戦国期のお城は石垣を使うことは少ない(ないわけではない)と説明していたものの、林の中のこれを見てお城の痕跡だと思うほうが少数派かもしれません。
芥川山城の遺構としてよく紹介される竪土塁。斜面に垂直に土塁が築かれていて、敵の横移動を遮断するためのものです。竪堀はよくあるのですが、これだけはっきり残る竪土塁はなかなか貴重。登山道のすぐ脇にあるのですが、ほとんどの人は見過ごして通り過ぎてしまいます。
土橋。芥川山城は大まかに東・中・西の3つのエリアに分かれていて、西側が一番標高が高く、本丸に当たる主郭があります。
この土橋は東と中のエリアを区画するもので、尾根の両側に空堀を設け、人一人通れる細い道を残したもの。攻め手は一本道を通らざるを得ないので、守城側は土橋を通る敵を集中射撃すればいいのです。
土橋を渡って土塁の切れ目の狭い虎口を抜けると中のエリアに入ります。この虎口も微妙に屈曲していてまっすぐ城内方向に進めません。
枡形など技工を凝らした作りではないのですが、シンプルながらも押さえるところは押さえている構えです。
中のエリアの中心となる曲輪。小さなピークの頂上をきれいに削平してあります。
今回、高槻市のサイトに載っている縄張り図を見ながら散策したので、小道なども迷うことはなかったのですが、「この道を行きましょう」と進みだす度に、@teaeye_kotoriさんと@caffe_pepeさんに「これが道なのか!?」と驚きの眼差しを注がれました。途中で猪除けの柵は越えたけど、ちゃんと通路を設けてあるところだったし、あれ!?
測量標めいたものを見かけたので確認すると、高槻市の埋蔵文化財調査センターが設置したものでした。基準点まで設けて測量を行うということは、高槻市の本気具合を伺うことが出来ます。素晴らしい。
大手道と合流する鞍部を超えると主郭のある西エリア。周囲が竹藪になり見通しの効かない登山道をしばらく進むと、パッと景色が開けます。
芥川山城のある三好山の標高は180m。麓からの比高は100mほどで、登山というほどの標高差はなく、のんびり歩いているうちに山頂にたどりついてしまいます。景色もさほど期待していなかったのですが、意外なほどの大パノラマ。これは天下を治める気分になります。
展望所と休憩所を兼ねたように整備されたのは主郭のエリアから南に突き出た尾根上の曲輪で、もともと見張所のような施設があったのかもしれません(推測)。
この奥は一つ一つの曲輪の規模が大きめで、切岸もしっかりとしたつくりになっています。
主郭は南北50m・東西30mほどあり、山城の主郭としては大きめ。発掘調査で縁側のある本格的な御殿建築が検出されていて、実際に居住空間として使われていたことが分かっています。
よく残った山城だなと思いながらも他の山城でもこれくらいの遺構のあるところは珍しくないと考えながら見ていたのですが、主郭周辺の作りにはなるほど天下を睨んだ城だと認識を新たにしました。
三好長慶は1560年に芥川山城を息子の三好義興に譲って、自身は河内の飯盛山城(大阪府大東市・四條畷市)へ移ります。ただ義興は早世し、長慶も1564年に没すると、三好氏は後継者争いの内紛で弱体化。
1567年に織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際に、三好氏の主要拠点の芥川山城も攻撃対象となり落城します。信長自身も一時、芥川山城に入城し、後に信長家臣の高山氏の城となりますが、やがて高槻城が築かれて芥川山城は役目を終えます。
芥川山城の遺構として必ず紹介される大手道の石垣。2ヶ所の石積みは本来一続きで、中央部分が崩壊してしまったものです。
特に防衛上重要な場所ではないのに巨大な石垣が築かれているので、登城者に権勢を誇るための「見せる石垣」だと解釈されていて、足を運ぶとその印象が強くなります。
城内の他の場所にはほとんど石垣を見ないだけに、ここだけ時代が違うような雰囲気すら感じます。
猪除けの柵を抜けて下山。
南麓から見上げるとなだらかな山容で、巨大な山城があるようには思えません。往時は山上の木が伐採されて、土塁の上に塀や建物が並びたち、主郭近辺にひときわ大きな御殿建築が建つ姿を見上げることになったはずです。
2021年11月14日
芥川山城(大阪府高槻市)
posted by ふくだ at 23:45| Comment(0)
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