2020年08月05日

補陀洛山寺

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 那智の滝の下流、那智川が海に至るまでの僅かな平地に補陀洛山寺があります。

 補陀洛は観音浄土を意味する言葉で、阿弥陀浄土が西方にあるとされたのに対し、観音浄土は南方にあるとされました。
 補陀洛を目指して船出することを「補陀洛渡海」と呼び、補陀洛山寺はその拠点でした。

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 境内の一角に不思議な形の小舟が展示されています。
 これは再現された渡海船で、中央に人が乗り込む屋形があり、その四方に朱塗りの鳥居が付いています。
 屋形に扉はなく、行者が乗り込むと30日分の食料を積み込んだ上で、外から釘を打ち付けて封鎖しました。
 補陀落渡海は北風の吹く旧暦11月に行われ、南に流された船はやがて黒潮に乗って日本沿岸から離れていくことになります。そうでなくても海が荒れる時期。つまりは帰ることのない片道の捨身行でした。

 記録では那智の浜から25人の行者が補陀落渡海に出たと伝えられています。記録に残らぬ船出もあったことでしょう。周囲の協力がないと出来ないことですから、死出の旅と知った上で多くの人が手を貸すことになります。以下に信仰心篤い時代と土地柄といえども、想像するだに辛いものがあります。

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 寺の裏手には補陀落渡海上人の供養塔があります。本人は船に乗って行ってしまうので、遺体はありません。既に墓石が失われたものも多く、どの上人か分からないものもあるのですが、手を合わせずには居られませんでした。

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 さらに奥に、平維盛の供養塔があります。
 平維盛は平清盛の孫。清盛の嫡男・平重盛の嫡子です。
 平家直系の御曹司ですが、父の重盛が早世したことと、重盛が鹿ヶ谷の陰謀に加担した藤原成親に近かったことから、平家の実権は清盛三男の平宗盛に移りました。維盛は、源頼朝と対峙した富士川の戦い、木曽義仲と対峙した倶利伽羅峠の戦いの平家方の総大将となりますが、いずれも大敗。
 一族の中でも微妙な立場に置かれた維盛は、一ノ谷の戦いの前後に平家の陣を逃亡して、『平家物語』には那智で入水したと伝えられています。

 ということまでは知っていたのですが、那智というのが補陀洛山寺とは結びついていませんでした。維盛の最後については異説も多々あるのですが、那智では補陀落渡海に出た25人の一人に数えられているのです。

 補陀洛山寺は世界遺産にも登録されているのですが、供養塔までは訪れる人も少ないようで、参道はすっかり苔に覆われていました。

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 那智湾。
 例年なら海水浴客で賑わうはずの海ですが、静まり返っていました。瀬戸内海を見慣れた身には驚くほどきれいな海で、補陀落渡海の船がここから出たこととなかなか結びつきません。
 全ては過去の出来事となり、補陀落を目指した人々の思いは、熊野信仰とともに語り継がれる物語となったのです。
posted by ふくだ at 23:48| Comment(0) | 地図と地理と遠出
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