2020年08月01日

神戸市立博物館「地図を作る人 長久保赤水」

20200801sekisui.jpg 神戸市立博物館のギャラリートーク「地図を作る人 長久保赤水」に参加。
 長久保赤水(1717-1801)は現在の茨城県高萩市の出身。農民出身ながら学者として身を立て、水戸藩の郷士(士分)となり、やがては藩主の講師役までになったのですから優秀な人でした。

 名を残しているのは日本地図の製作者として。
 伊能忠敬(1745-1818)に先立って、『日本輿地路程全図』を編纂しました。伊能図は全国を測量して作ったものですが、長久保赤水の『日本輿地路程全図』は赤水が集めた地理情報を元に編集したもので実測は行っていません。それでも日本列島の形はほぼ正確に掴んでいるのが驚きです。

 伊能図は幕府に献納されて機密扱いになるのですが、赤水の地図は出版されたため、広く世間に出回ります。死後も改定が続けられ、最終的に明治に至るまで発行されたほか、海賊版や独自に情報を加えて出版されたものもあるなど、江戸後期の日本地図のベストセラーでした。

 赤水の地図には経緯度を示す格子が描かれていますが、緯度には数値が振られているものの、経度の記載がありません。この当時、緯度は既に渋川春海以来の天文方による測定が行われていましたが、経度を測る技術はありませんでした。ただ経緯度で位置を示す概念は入っていたのです。

 赤水の手紙に改訂版発行時の価格が記されていて、フルカラー版とも言うべき極彩色版は1枚25両。当時の地図は木版に手彩色でとても手間のかかるものでしたが、25両を現在に換算すると約90万円とのことで、とても気軽に買えるものではありません。色数を減らした版もあったそうですが、何れにせよ高価なものでした。
 後にシーボルトが「本屋に行けば並んでいる」と書き残したり、全国を旅した吉田松陰が使っていたという話もあるのですが、おそらく後年にはずいぶん値が下がったのだと思います。

 新幹線や高速道路が新規開通するわけでもない江戸時代に何度も改訂する必要があるのかと思うのですが、例えば初期の地図は九州や四国の掲載地名が少なく、情報を得るたびに追加していきました。
 赤水の自宅は陸前浜街道(現在の国道6号線)のそばにあったのですが、通行人をつかまえては土地の話を聞くなどの情報収集をしていたそうです。

 赤水はこの他にも世界地図や中国地図を残しています。世界地図はマテオ・リッチの世界地図の日本語版、中国地図は中国の歴史的地名をふんだんに盛り込んだもので、史記や三国志に出てくるような有名な地名はたいてい収録されていますから、眺めていて楽しくなります。

 出展された地図には赤水がつくったものでは「ない」地図もあるのですが、前書きに赤水に見てもらった旨が記されています。今で言えば「監修」みたいなものでしょうか。つまりは長久保赤水の名が権威として通用するものになっていたということです。

 伊能忠敬より一世代前に活躍した長久保赤水ですが、郷里の高萩に戻って1801年8月31日に亡くなります。
 実は伊能忠敬は第二次測量の折り、1801年9月10日に高萩の測量を行っていて、本当に惜しいタイミングで会えなかったことになります。忠敬のことだから何れにせよ淡々と測量をこなしたに違いないのですが、稀代の地図作成者の2人、会わせてあげたかったなあと思わずにはいられません。
# 日付はいずれも新暦換算。
posted by ふくだ at 23:45| Comment(0) | 博物館や美術館
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