2020年07月10日

高橋至時・景保・伊能忠敬墓所

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 上京中は上野に宿をとっていたのですが、伊能忠敬のお墓が近くだったと気がついて、お参りしてきました。上野と浅草の間のやや上野寄りというところで、上野駅の入谷口から徒歩10分くらい。

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 源空寺という浄土宗のお寺で、お寺の本堂とは道路を挟んだ向かい側に墓地があります。

20200710genkuji005.jpg 伊能忠敬(1745〜1818)は『大日本沿海輿地全図』の作成者。
 千葉の九十九里の名主の子に生まれ、佐倉の酒造家の伊能家に養子に入り、家業を立て直して名主としても活躍。隠居して江戸に出て暦学を学び、また地球の大きさを実測したいという思いから測量を手掛け、やがて幕府の事業として全国測量に取り組むことになります。
 墓碑銘は「東河 伊能先生之墓」。東河は忠敬の号で、墓石の側面と背面にはびっしりと顕彰文が彫られています。

20200710genkuji009.jpg 高橋至時(1764〜1804)は幕府の天文方を務めた天文学者で、「寛政暦」の改暦を担ったほか、西洋の天文学の受容に積極的に務めました。伊能忠敬の師でもあります。
 大坂の同心の生まれで麻田剛立の門下に入り、寛政の改暦にあたって幕府の命を受けて上京し、改暦作業の中心的な役割を担います。またフランスの天文学者ラランドが著した『ラランデ暦書』の研究に務め、これが元で命を縮めたとも言われています。
 墓碑銘は「東岡 高橋君之墓」。東岡は至時の号です。伊能忠敬は師のそばに葬ってほしいと遺言を残し、源空寺の墓地で師弟の墓が並んで立てられています。

20200710genkuji015.jpg 高橋景保(1785〜1829)は高橋至時の長男で、至時の後継で天文方を務めました。
 伊能忠敬の測量を援助し、忠敬の死後に『大日本沿海輿地全図』を完成させます。また幕府の蛮書和解御用(翻訳)や書物奉行を務めるなどの活躍をしますが、シーボルト事件に関与して逮捕され、獄死します。獄死後に斬首の判決が出されたため、罪人として葬られます。
 墓碑銘は「玉岡 高橋景保墓」。玉岡は景保の号。景保・忠敬と同じ並びですが、少し間を開けて墓地の入口そばに景保の墓があります。墓碑が新しいのは、罪人の身を憚って当時は建立を避けたためでしょうか。
 墓碑の脇には景保の顕彰碑が建立されており、背面にはシーボルトの言葉も刻まれています。多くの犠牲を払ってシーボルトに託された地図によって、オホーツク海沿岸の西洋世界最後の空白域が埋まることになります。

20200710genkuji001.jpg 源空寺と墓地の間の道はちょうど真正面にスカイツリーを望む方角を向いています。天文とも地図とも関係ないのですけど、何だかちょっと面白い。

 それにしても師弟と父子ではありますが、とんでもない人たちが同じ墓地に眠っているものです。

posted by ふくだ at 23:45| Comment(0) | 地図と地理と遠出
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