2020年06月28日

吉野ヶ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町・神埼市)

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 吉野ヶ里遺跡は弥生時代の初頭から古墳時代まで、数百年に渡る人々の営みが刻まれています。
 工業団地の開発計画に伴い、1986年より本格的な発掘調査が始まるのですが、大規模な環濠集落や物見櫓、楼観の跡が検出され、「魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の集落のよう」と大きな話題になりました。
 その後、遺跡は国の特別史跡に指定され、一帯は国と佐賀県によって吉野ヶ里歴史公園として整備・公開されています。復元建物は遺跡がもっとも栄えたとされる弥生時代後半を基準にして建てられています。

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 吉野ヶ里遺跡南内郭。吉野ヶ里遺跡は集落全体を南北1km・東西0.6kmの大きな環濠が囲んでいます。その中に、さらに130m×70mの区域を環濠で囲んでいるのが南内郭。弥生時代の後半に作られた区画で、吉野ヶ里を治める上層部の人たちの住んだ区域と推定されています。

 発掘調査当時の新聞に「邪馬台国が見えた」という見出しが躍ったと何かで読んだ記憶がありますが、気持ちは分かります。この規模の環濠はちょっとすごい。

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 吉野ヶ里遺跡北内郭。
 南内郭から200mほど北東にあり、二重の環濠に食い違いの出入口、張り出し部に設けられた物見櫓と、厳重な区画になっています。弥生時代の終末期に築かれた区画。
 祭祀などが行われていたと推定される場所で、竪穴式の建物は一つしかなく、何より特筆すべきは超大型の掘立柱建物があることです。このため上層者の住まいだった南内郭と性格が異なり、北内郭は祭祀や政を行う特別な空間だったとが推定されています。

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 超大型の掘立柱建物は主祭殿として復元されています。上階では巫女が神託を受ける様子、初層では吉野ヶ里の長を中心に指導者層と周辺のムラの長が集まり、政の会合をしている様子が再現されています。

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 吉野ヶ里遺跡はなだらかな微高地の尾根に広がっているのですが、農耕を行っていた集落がありません。
 遺跡南部の集落(左写真)からは青銅器の製造に関わる溝が検出されていて、ものづくりに携わるムラだったと推定されています。また南内郭の西側は高床倉庫の立ち並ぶ区域で(右写真)、こちらは倉と市の空間だったと推定されています。
 区域ごとの役割分担が明確になっているのも特徴で、ムラというよりクニの中心として存在していたことを実感します。

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 環濠の最北端にある北墳丘墓。南北約46m・東西約27m・高さ4.5m以上あり、中からは14基の甕棺が見つかっています。歴代の王が埋葬された墓と考えられています。埋葬が行われていたのは弥生時代中期までですが、祖先を祀る場として引き継がれ、北内郭の主祭殿の軸は北墳丘墓に一致していているなど、弥生時代終末期まで祭祀が続いていた事が伺えます。

 通常は内部が公開されているのですが、今回は閉鎖中でした。体験学習系はお休みだろうとは思っていたのですが、展示施設の多くも閉められていたのが想定外。事前に下調べはしたのですが、遺跡の歴史の資料は読んだものの、遺跡公園の運営状況はノーチェックでした。下調べの方向が間違ってる(ダメやん)。

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 遺跡の北端部にある甕棺墓列。
 土饅頭の一つ一つの下に甕棺が埋葬されています。その数は約1,000基、600m。弥生時代中期前半のもの。発掘された人骨には首のないものや鏃が刺さったものがあり、戦争の犠牲者であることを窺わせています。

 吉野ヶ里遺跡は全体として北側が墓域、南側が生活の空間になっています。その間に祭祀や指導者層の集落があるという形。

 隆盛を極めた吉野ヶ里ですが、3世紀後半になると環濠は埋没し、北内郭・南内郭とも機能を失ったと考えられています。弥生時代の終焉とともに集落が解体され、古墳時代に人が住むまで200年ほどの空白期間があります。これほどのクニがどうして消滅してしまったのやら。

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 吉野ヶ里遺跡は日本城郭協会が選考した「日本100名城」に選定されています。大規模な環濠集落はまさに城郭そのもの。
 ただ後世の城郭は、城の外側に堀を掘り内側に土塁を築くのですが、吉野ヶ里は土塁の内側に堀があります。守備には不便ではないかと思うのですが、遺構がこうなので、それに基づいて再現してます。スタッフの方も「なんででしょうねぇ」と首をかしげるばかり。みんな不思議に思うそうです。
posted by ふくだ at 23:49| Comment(2) | お城
この記事へのコメント
随分前に見学しました。
各所の解説が、余りにも断定的に書かれているのが気になりました。
Posted by ウインドk−ル at 2020年07月13日 21:18
そのあたりは「現時点ではこう考えていますが、今後は解釈が変わるかもしれません」的な説明が何箇所かで加えられていました。

かつて「南墳丘墓」とされていた丘は、その後の調査で埋葬の形跡が見つからず、現在では祭壇とされています。

こうした経緯も含めていろいろ改善が進んでいるのだと思います。
Posted by ふくだ at 2020年07月13日 23:34
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