2020年06月28日

筑前町立大刀洗平和記念館

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 日本では第二次大戦中の飛行機を展示している施設が少なく、また展示機も多くありません。
 戦後は軍事を扱うこと自体を避ける風潮がありましたが、当時の日本の技術開発や工業生産の水準を知り、同時代の他国と比較してどのような位置にあったかを知ることも、先の戦争を理解する上で必要なことだと思います。

 大刀洗平和記念館には第二次大戦当時の戦闘機が2機展示してあります。
 一つは旧陸軍の九七式戦闘機、もう一つは旧海軍の零式艦上戦闘機三二型です。いずれも現存機が世界中に一機しかない貴重な機体です。
 
20200628tachiarai02.jpg 今は田畑が広がっていますが、かつてはこの一帯には大刀洗陸軍飛行場があり、航空廠や飛行学校がある陸軍航空の一大拠点でした。
 海軍の飛行機は零戦が様々な媒体で描かれ、軍事に詳しくなくても多少のことは耳に入ってくるのですが、陸軍航空は余り知らないのが正直なところ。例えば特攻隊の出撃地として知られる知覧も、海軍ではなく陸軍の基地だったことは今回はじめて知りました。そして知覧は大刀洗の飛行学校の分校として作られたことも。

 大刀洗も戦争末期は特攻隊の出撃地となり、そして米軍の空襲によって壊滅しました。広大な敷地は田畑や工場となり、かつての軍都の面影はありません。

20200628tachiarai03.jpg 展示で唯一撮影が許可されているのが零戦三二型です。
 零戦は海軍の戦闘機ですが、この三二型は海外で発見され、日本に里帰りし、民間団体の所有を経て大刀洗の記念館へ落ち着いたという経緯があり、少々別枠扱い。知名度は高い機体なのでこの記念館の顔の一つになっています。

 もう一機の実機展示の九七式戦闘機は陸軍の戦闘機で博多湾から引き上げられたもの。
 零戦より一世代前の飛行機ですが、太平洋戦争の初期まで主力として活躍し、末期は特攻機に転用されました。大刀洗の機体も特攻機として出撃しながら、故障で不時着、水没したものと推定されています。
 正式採用は零戦と3年しか差がないのですが、ジュラルミンの外板の加工や増槽の成形など、それ以上に年代の開きがあるように感じます。飛行機の技術革新がいかに目まぐるしい時代だったかを伺えます。

 搭載しているエンジンも、九七戦は600馬力級、零戦は1100馬力級でほとんど倍。これが大戦末期になると2000馬力級が普通になります。その時期まで九七戦や零戦を使わざるを得ないのが当時の日本でした。

 資料館の展示は太刀洗が空の軍都として発展する歴史、震電を作った九州飛行機のコーナーから、太刀洗空襲、そして太刀洗の航空学校から巣立った特攻兵へと続きます。収集された遺品や展示されている遺書を読むのは正直つらい。先の九七戦の搭乗員も、別の機体で再度出撃し、帰らぬ人となっています。

 大刀洗平和記念館は郷土資料館的な位置づけもあり、1945年3月の大刀洗空襲にも大きなボリュームを割いています。飛行場や軍需工場が標的でしたが、民間にも大きな被害を出しています。

 2020年は第二次大戦終戦から75年。戦争を伝え、知ることも、戦争を起こさぬための不断の努力です。
posted by ふくだ at 23:45| Comment(0) | 博物館や美術館
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