2020年06月27日

辰野金吾と曽禰達蔵と唐津

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 唐津の地図を眺めて見つけたのが旧唐津銀行。
 瀟洒な洋風建築で、唐津城ともカーシェアの駐車場とも近かったので寄ってみることにしました。というか、歩いていたら見えたんですけどね。

20200627karatsuginko02.jpg びっくりしたのは建築家の辰野金吾、唐津の出身だったのですね。
 赤レンガの東京駅舎、日銀本店、大阪の中之島公会堂、神戸の第一銀行神戸支店(みなと元町駅外壁)などそうそうたる建物を設計した人です。あまりに頑丈な建物になるので「辰野堅固」と呼ばれたとか。変わったところでは南海本線の浜寺公園駅駅舎、武雄温泉楼門といった木造や竜宮造りの建物も手掛けていて、これは当時の日本では建築家という職業が確立していく段階だったので、出来る仕事は何でも受けていたのだそう。

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 こちらも通りすがりに見つけた石碑。
 郷土の偉い人が住んでいたんだな、へぇ。くらいの気持ちで案内文を読み始めてびっくり。
 「日本郵船神戸ビルの設計者、この人なのかー! この人も唐津なのかー!」

 日本郵船神戸ビルは旧居留地の西隣にある神戸でも指折りの洋風建築。神戸の港町の景観には欠かせない建物です。
 「この人」の名前は曽禰達蔵。辰野金吾と同期で工部大学校(現在の東大工学部の前身)を卒業しています。
 辰野金吾は唐津の家中でも家格の低い家でしたが、曽禰達蔵は上級藩士で若殿の小姓を務めていました。この若殿というのが幕府老中の小笠原長行で、曽禰達蔵も戊辰戦争で長行に従い長岡あたりまで従軍していたそうです。

 唐津は譜代大名の家で、隣の佐賀が薩長土肥の中核に食い込んだのに比べると、明治維新には乗り遅れます。こうなると政界で偉くなるのは難しいので、技術で身を立てるのが若者の立身の道でした。
 世が世なら曽禰と辰野が机を同じくして学ぶことはありえないのですが、かつての身分差を超え、才あるものに道が開けたのが明治時代の明るさなのでしょう。

 辰野は大学で後進を育てながら、曽禰は三菱に移って民間で、日本の建築界の基礎を築いていくことになります。

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 唐津銀行は金融機関の常として合併統合を重ねまくり、現在の佐賀銀行の前身の一つになっています。辰野金吾が建てた旧社屋は現在もほぼ当時の姿で保存され、「旧唐津銀行・辰野金吾記念館」として公開されています。中はいきなり吹き抜けで、ずらりと並ぶ瀟洒なカウンター。規模は違うのですが、元銀行の建物を転用した神戸市立博物館に通じる雰囲気があります。

 入り口に辰野金吾と曽禰達蔵の胸像が並んでいるのは、全国的な知名度では圧倒的に辰野のほうが上ながらも、郷土の偉人としては両者ともに日本の建築史に名を刻んだ存在として並び立つ存在なのでしょう。

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 1階は銀行の姿を伝える展示をしているのですが(写真は撮っていなかったのですが、分厚い壁の金庫もあります)、2階は記念館らしく業績を紹介する展示になっていて、その中に辰野が手掛けた建物の1/100の模型がたくさん並んでいます。解説を見ると地元の唐津工業高校の建築家の生徒がつくったものとのこと。どの模型も見事な出来栄えで、こういう取り組みは素晴らしいと思います。私も混ぜてほしい。世間の平均よりは器用です、きっと。

 1階には案内のスタッフの方々が常駐されているようで、お声がけいただいて説明をお聞きしたのですが、辰野も曽禰も神戸に手掛けた建物があるということで、大いに話が盛り上がりました。
 私も飛び込みで伺ったのですが、「ここにくる方はほとんどが事前には知らなくて、ふらっと寄ったという方ばかりなんですよ」とのこと。

 とはいえ旅先で思いもよらぬ人々の足跡と巡り合うのは、本当に楽しいものです。
 素敵な出会いでした。
posted by ふくだ at 23:48| Comment(0) | 地図と地理と遠出
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