2020年06月27日

唐津城(佐賀県唐津市)

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 唐津城は関ヶ原の戦いののち、1602〜08年にかけて寺沢広高によって築かれました。海に突き出した半島突端の丘を城郭化した堅固な造りです。
 唐津の地名が記録に出てくるのは室町以降で、この一帯はもともと「松浦」と呼ばれていました。松浦郡となるとかなり広域な地名ですが、唐津は松浦川の河口にあるので、有力な中心地の一つだったのでしょう。元は魏志倭人伝の「末羅国」までさかのぼる由緒ある地名で、中世には松浦党と呼ばれる武士団が活躍しました。

20200627karatsujo04.jpg 現在の天守は戦後に建てた模擬天守で、もともと唐津城には天守がなかったとされています。少なくとも1640年代の正保城絵図には天守が描かれていないのと(天守台すら描かれていないのですが、単に省略したのかもしれません)、今のところ天守の存在を窺わせるような資料も残っていません。
 模擬天守は肥前名護屋城図屏風の名護屋城天守を模したそうで、周囲の景観にはすっかり溶け込んで、遠目には違和感がありません。

 名護屋城は唐津領内にあり、唐津城から見て北東15kmになります。名護屋城は朝鮮渡海の拠点としては優れた立地ですが、唐津領の治所としては北に偏りすぎ、また天下人の城を一家臣が使用するのは恐れ多いという意識もあったかもしれません。名護屋城には城番が置かれていたそうです。

 名護屋城の資材を唐津城に転用したという逸話もあるのですが、石垣については名護屋城は玄武岩、唐津城は花崗岩が主体なので、これはなさそう。ただ解体した建物の木材や瓦を転用した可能性はありそうです。
 なお発掘調査では寺沢広高の築城以前にさかのぼる可能性のある石垣や名護屋城と同じ様式の金箔瓦が検出されていて、名護屋城への中継拠点となる城が築かれていた可能性も指摘されています。

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 唐津城の三の丸には市役所が置かれ、周囲も市街化しています。市役所前には石垣と堀が残り、単層の隅櫓が復元されています。また堀も兼ねていた町田川沿いにも三の丸辰巳櫓が復元されています。

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 二の丸も市街化していますが、堀と石垣は残っています。
 二の丸と本丸はさほど高くない石垣で区切られ、本丸側には御殿が建っていました。現在は早稲田佐賀中学校・高等学校の敷地になっています。

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 城跡の学校はいかにも伝統校のようですが、東経130度モニュメントのある唐津東高が以前はこの場所にあり、郊外に移転した跡地に現在の早稲田系列の学校が入ったのだそうです。そういえば何年か前に野球部が夏の甲子園に出ていましたね。
 城跡に通うのはちょっと憧れです。私の母校も城跡なのですが、中世城郭だし江戸時代は陣屋だし目立つ遺構もないので、城跡の雰囲気を感じることは全くありませんでした。石垣は分かりやすくて良いです。

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 御殿跡を過ぎると半島突端の丘になり、公園化された城跡になります。石垣も本格的に高くなります。見るからに白い花崗岩ですね。
 天守台の石垣は先ごろ修復工事が終わったばかりで、きれいになりすぎた感があります。何年か過ぎればまた馴染んでいくのでしょう。天守台の奥は修復工事がまだ続いていました。

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 唐津城天守最上階から東を望む。
 写真では雰囲気を伝えるのが難しいのですが、唐津城は見晴らしの良い場所にあり、模擬天守とはいえ天守からの眺望は素晴らしいです。西には城下町、そしてこの写真の東の奥には虹の松原が広がっています。
 虹の松原は寺沢広高が防風林として植林したもので、元は「二里の松原」だったものが、いつしか「虹の松原」と呼ばれるようになったのだとか。弧を描く海岸線を虹に見立てたとばかり思っていました。

 寺沢家は天草に飛び地があり、ここが島原・天草の乱で一揆勢が蜂起。天草領は没収され、寺沢家も二代で嗣子なく断絶します。
 以降の唐津領は、大久保家→松平家→土井家→水野家→小笠原家と譜代大名が次々に入れ替わります。大久保家は明石から転じた家で、また小笠原家も明石城を築城した小笠原忠政の弟の家系で、何かと縁があります。

 天保の改革で知られる水野忠邦は唐津藩主時代に老中になりましたし、小笠原家からは小笠原長行が部屋住みの身ながら老中に就任しています。この人が第二次長州征討で小倉藩が大苦戦する要因をつくって本家に大迷惑をかけるのですが、本人は五稜郭まで旧幕軍と行動を共にしています。軍事に向いてはいませんでしたが、筋は通す人だったのでしょう。

posted by ふくだ at 23:47| Comment(0) | お城
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