2019年02月23日

府中郷土の森博物館

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 府中郷土の森博物館プラネタリウム。
投影機は五藤光学研究所の最新型ケイロンIII。23m水平型の大きなドームに精細な星空が映えます。生解説の投影は客との距離が近くて親しみを感じる雰囲気でした。

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 旧投影機の五藤光学GL-AT。五藤光学研究所の本社は府中にあり、いわばお膝元の博物館です。天文展示の一角にも同社の活躍を紹介するコーナーがありました。なんと言っても世界有数のプラネタリウムメーカーですから。
 ところで、「『Fuchu』には『Uchu』がある」って、キャッチフレーズがダジャレでいいんですか?

 府中郷土の森博物館の展示は人文・歴史系が中心で、そこにプラネタリウムが併設されています。
 2階の展示室は府中の歴史をたどるものになっていて、これがよく出来ています。「府中」という地名は各地にありますが、これは古代の国府があったことに由来しています。東京の府中市は武蔵国府があったところ。武蔵国はかつて東山道に属していたのですが、後に東海道に移管されます。これにより国府周辺の道もつけ変わったりしているのですが、それはまた別の話。

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 左写真は古代武蔵国府の景観を再現したもの。多摩川の河岸段丘の上に政庁が置かれ、周囲に集落が形成されている様子を表現しています。

 右写真は体験コーナーで、備え付けの用紙に武蔵国府の印を押すことが出来ます。もちろん印判はレプリカですが、国司になったようで気持ちがいいです。
 用紙には戸籍が記されていて、その戸籍の全面に判子押すことで、改ざんを防ぐ意味があったと聞いたことがあります。奈良の正倉院展に行くと、たまにこうした戸籍が出展されてます。

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 左写真は分倍河原の戦いにまつわる展示。1333年5月15・16日に上野新田庄から鎌倉目指して南下する新田義貞勢と、鎌倉防衛のために出陣した幕府勢がここで激突。この直前まで新田勢は破竹の勢いで進撃し、多摩川は武蔵国での最終防衛線でした。2日間に渡る激戦を新田勢が勝ち抜いたことで、鎌倉幕府滅亡の流れは決定的となります。
 展示されている板碑はこの戦いで戦死した武士を悼んだもので、若者ばかりが討ち死にして胸が痛みます。

 右写真は江戸時代の府中宿の展示。江戸を中心に整備された五街道の一つ、甲州街道の宿場町として栄えました。

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 屋外には移築された建物群が並び、さながら公園全体が博物館となっています。
 そうした屋外展示から「まいまいず井戸」。「まいまい」はカタツムリのことです。
 府中は多摩川の河岸段丘上にあり、地下水面が深いのですが、地表近くは火山灰層(関東ローム層)で崩れやすい地質です。このため下の比較的安定した層まですり鉢状に掘り下げ、そこから垂直に井戸を掘ったもの。武蔵野台地にはこうした緯度がいくつか残っているそうですが、府中郷土の森のものは展示用に再現したものとのこと。

20190223fuchu_tamaroku016.jpg 分倍河原駅前の新田義貞公像。
 新田義貞は鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した武将で、宮方(後醍醐天皇方)の忠臣として名を馳せました。その晴れ舞台は鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ鎌倉攻めで、その中盤のハイライトが分倍河原の戦いです。「あれは新田か北条か 火花散らした古戦場」という句が紹介されています。

 勇将ながら不器用なタイプで、最後は北陸戦線であっけない討ち死にを遂げます。神戸にも来ているのですが、これも湊川の戦いの負け戦。兵庫区に「遠矢浜」という地名がありますが、これは海路で進撃した足利尊氏の軍船に、新田勢の武者が遠矢を射掛けたことに由来するものです。
posted by ふくだ at 23:45| Comment(0) | プラネ/天文台/科学館
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