まさか小田氏治がNHKの歴史番組で全国デビューする日が来るとは思いませんでした。
小田氏は鎌倉幕府の御家人から続く名門の家系ですが、戦国時代には後北条氏と佐竹氏の間で次第に衰退していきます。小田氏治(1531もしくは1534〜1602)は小田氏の戦国末期の当主でした。
茨城県南の歴史を調べると分かるのですが、小田氏治、本拠の小田城(茨城県つくば市)を5回も6回も落とされている。何度も奪還はするのですが、最終的な帰還は能わず、小田原の役に際して改易され、戦国大名小田氏の幕を引きます。
とにかく、またも負けたか小田天庵(出家後の名)といった具合で、しょうがない人だなあという印象しか持っていなかったのです。
ところが最近、ネット界隈の歴史ファンの中で密かに小田氏治の人気が上昇していたというのです(知らなんだ)。
確かに「小田氏治」で検索すると、「戦国最弱」とか「不死鳥」とかわんさか出てくる。マジですか。
さてヒストリア。多少、話をまるめたところはありますが、面白くまとまっていました。
個人的になるほどと思ったのは、小田氏治が小田城を最終的に失陥するのが1573年。その後は佐竹氏の支配下のもとで改修を重ねられたわけで、現在の平城なりに工夫をこらした縄張りは、佐竹の手が多く入っているのだということ。
逆に氏治時代の小田城は本丸の方形館の基本から、大きく代わり映えしない姿だったのかもしれません。平城といっても普通は台地の隅などの高低差を利用するものですが、小田城は全くの平坦地で、南に桜川の低湿地帯がある以外、要害らしい要害はありません。だからこそ簡単に落とされて、また簡単に奪還も出来たのでしょう。
# 眼の前に筑波山系の山があるので詰城をつくってもよさそうなものですが。
晩年は結城秀康の客分として越前に移り、そこで没します。子孫から軍学者が出たとか紹介されていますが、先祖が小田天庵って説得力なさすぎな気はします。
しかし150回忌が営まれたってのはすごい。実は小田氏の家臣だった菅谷氏が江戸時代、旗本として筑波一帯を治めていたので、旧主の小田氏に対する敬意が根付いていったのかもしれません。
ヒストリアに出たなら、狙うは何年後かの大河ドラマだな(無理無茶無謀)。
番組中では戦国を生き延びた小田氏治を「ある意味で勝者」としていましたが、戦国大名としては滅亡しても家名を残した家は少なくありません。傍系の子孫が他家の家臣となった例はいちいちあげるのが大変なくらいです。
・今川氏→今川氏真は家康に仕え、江戸幕府の高家として存続。
・武田氏→武田信玄の次男の武田竜芳の子孫が、江戸幕府の高家として存続。
・後北条氏→北条氏直の叔父、北条氏規の子孫が河内・狭山に1万石で存続。
・織田氏→信長の次男、信雄の子孫が出羽・天童で2万石で存続。
・足利氏→古河公方から分かれた小弓公方の足利頼純の子孫が下野・喜連川で5千石で存続。
2018年06月13日
歴史秘話ヒストリア「『戦国最弱』小田氏治がゆく」
posted by ふくだ at 23:45| Comment(7)
| テレビ録・ラジオ録
小田城跡は国指定史跡ですが、筑波鉄道の開通が1918年で、史跡指定が1935年。文化財保護の網が掛かる前に鉄道が通ってしまったのです。
路線跡に整備された自転車道は、本丸内部を迂回するルートで整備されました(黄色の道)。
本丸内の路線跡は切り通し状に周囲より低くなっていたのですが、GoogleMapで見ると、史跡広場整備時に埋められたようです。
https://goo.gl/maps/ed6d6tz8pr42
私は15年ほど前から氏治は面白いなぁと感じていたのですが、自分では何もせず誰か小説でも書いてくれないだろうかと待っておりました。小説ではなくゲームで名が知られる様になったというのは今時の流れですね。
余湖さん http://yogokun.my.coocan.jp/hujisawayurai.htm
ウモさん https://twitter.com/umoretakojo(6月13日以降に氏治関係連続tweet)
などが面白いことを書いています。
『改訂版・図説 茨城の城郭』ではウモさんが小田城、藤沢城、私が土浦城、
『続・図説 茨城の城郭』では余湖さんが手這坂合戦、私が甲山城、永井城、木田余城、花室城
など。この他にも、氏治関連の城館はかなり取り上げてあります。
(現在、手這坂合戦は永禄12年(1569)説が有力の様です)
>眼の前に筑波山系の山があるので詰城をつくってもよさそうなものですが。
宝篋山の麓の前山が詰城なのかな。宝篋山山頂付近には3方に堀切があったり、少し下がったところに城跡があったので砦だったとは思いますが、詰城としては遠すぎ、高すぎですね。南北朝の時、高師直が宝篋山側から小田城を攻めているので、防御の役に立っていませんね。
>子孫から軍学者が出たとか紹介されていますが、先祖が小田天庵って説得力なさすぎな気はします。
これ笑えますね。でも、平和な時代になると負けても生き残るという小田軍学にも意義が見出されたのかな?
>150回忌が営まれたってのはすごい。実は小田氏の家臣だった菅谷氏が江戸時代、旗本として筑波一帯を治めていたので、旧主の小田氏に対する敬意が根付いていったのかもしれません。
そういう背景もあったのでしょう。江戸時代には、旧臣の末裔が旧主の法要を機会に集まって旧交を暖めるということが結構あったみたいですね。旧臣名簿が残っているので面白いです。
>小田城は全くの平坦地で、南に桜川の低湿地帯がある以外、要害らしい要害はありません。だからこそ簡単に落とされて、また簡単に奪還も出来たのでしょう。
佐竹氏によって大改造が行われた小田城の前で奪還を諦めるというシーンがありました。小田城は小田氏の城と語られることがほとんどなのですが、手這坂以降の20年間、つまり戦国末期は佐竹の城というのがポイントだと思っています。
番組も福田さんの記事も面白かったのでたくさん書かせてもらいました。
小田氏治は面白おかしく盛り上げてもらえましたが、後北条と上杉に挟まれた北関東には、氏治のような領主がわんさかいたのでしょうね。
筑波町史の小田城平面図(想定)だと宝篋山まで総構えに取り込んでいますが、確かに高すぎ・遠すぎですよね。ここまでの構えを築くにしても、佐竹時代に入ってからなのかなという気もします。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a4/Pic_odajyou_nawabarizu.gif
実は私も、戦国末期の小田城は佐竹の城だったというのが頭からすっぽり抜け落ちてました。
全くの平城でも縄張りはけっこう凝ってるのに、それでもあれだけ落城するものかと思っていたのですが、小田氏治の時代はずっとシンプルな縄張りだったのでしょう。
強化された小田城を落とせない氏治って笑い話みたいですが、さもありなんと思いました。
>江戸時代には、旧臣の末裔が旧主の法要を機会に集まって旧交を暖めるということが結構あったみたいですね。
なるほどなるほど。小田氏の家臣はそのまま地元で帰農した人も多いように思いますし、領主の菅谷氏にも「先祖が同じ釜の飯を食った仲」みたいな気持ちはあったかもしれません。
ちょっと盛り過ぎな面もありますが、メジャー番組で主役張るには多少の盛りも必要でしょう。こういうことの積み重ねを機会に小田氏研究が深まって欲しいです。
>筑波町史の小田城平面図(想定)だと宝篋山まで総構えに取り込んでいます
引用の図の北側に描かれているのは前山で、ここまでは惣構えあるいは外郭で良いかもしれないと感じます。前山から尾根を伝わって北へヘロヘロになって登って行った先に宝篋山があります。
宝篋山はもっと北側の山ですね。
宝篋山の尾根の一つが南西に伸びて、小田の前山になっているのですね。
「ヒストリア」での扱い、私もあれくらいの盛りなら許容範囲内かなと思います。
そもそも「小田氏治で45分枠の全国番組成立するの? 大丈夫!?」と思っちゃうくらいでしたから。
ウモさんのツイッターは何年か前から見ているのですが、小田氏治の論文はほとんどないそうですね。ウモさんが把握されている範囲で、黒田基樹先生の一本だけとか。小田氏は常陸南部の重要氏族なのに意外です。
そして小田城西側の外郭線へ続くんですよ。面白いですね。
>小田氏治の論文はほとんどないそうですね。
私も小田氏について調べたいことがあり、小田氏に詳しい専門家がいないか、中世史の先生に尋ねたのですが、部分部分で研究している人はいても、小田氏の専門家といえる方はいないそうです。結構驚きました。糸賀茂男先生などは詳しい方かもしれません。