2018年05月06日

松山城(愛媛県松山市)

 松山城と名の付く城は全国に数あれど、一般的に松山城といえば伊予松山城を指します。冒頭写真は搦手から見上げた本壇。切込み接ぎの本壇、打込み接ぎの本丸、さらに野面積みの石垣が腰巻きのように取り巻き、三種三容の石垣を眺めることが出来ます。

 関ヶ原の戦い直後の1601年に加藤嘉明によって築城、江戸時代は久松松平家15万石の居城となりました。
 比高100mの山上に本丸があり、山麓に二の丸と三の丸があります。本丸には三重の天守がそびえ、現存十二天守の一つです。ただし江戸後期に火災で焼け、再建されたのは1854年と幕末の只中の「新しい」天守です。

 加藤嘉明は賤ヶ岳の七本槍にも数えられた秀吉恩顧の大名で、秀吉没後は加藤清正や福島正則と共に徳川方に付きました。関ヶ原の戦いの後に20万国で伊予に入封し、松山城を築きます。のち松山城の完成を見ずに会津若松に転封されますが、四国の主邑と奥羽の要地を任されたことからも、有力大名として重んじられていたことが伺えます。
 築城の名手としては加藤清正のほうが名高いのですが、加藤嘉明の手がけた松山城と会津若松城のいずれも堅城です。

 松山城の本丸には山麓からロープウェーとリフトが通じています。比高100mなら、城好きなら歩くところですが、今回は荷物が多かったので、リフトに乗りました。

 山上駅から5分も歩くと本丸一帯の高石垣が広がります。本丸と通称されていますが、大手はいくつもの枡形が重ねられた厳重な作りで、本丸内にも天守曲輪に相当する本壇という区画があり、さらに連立式天守がある三段構えといえる構成になっています。

 本壇のみ有料区画となっています。加藤嘉明時代は五層の天守だったと言われていますが、幕府に遠慮してか地盤の弱さを考慮してか、のちに三層に改められました。五層天守の大きさの天守台に三層の建物ですから、小ぶりながらも幅広で重厚感のある雰囲気を醸し出しています。
 連立式天守はすべてが現存建物だと思っていたのですが、実際は三層の大天守のみが江戸期の建物で、小天守と隅櫓は火災で焼けた後の昭和の再建。

 本壇のみ切込み接ぎの石垣なのが気になって観光ボランティアガイドの方に質問したら、「石垣のことを尋ねてくれるとは嬉しい」とすっかり意気投合して、搦手から本壇を一周し、さらには本壇内の建物まで付きっきりでご案内頂きました。いやあ楽しかったです。

 石垣はほぼ花崗岩ですが、倉庫として使われた大天守の内側のみ凝灰岩。間隙が多く吸湿機能を期待されての採用とのこと。
 再建建物の小天守と南北隅櫓の中は博物館的に城と城主家の歴史をたどる展示室になっています。ただし久松松平家は幕末に朝敵となったことから、「めぼしいものはみんなもっていかれちゃった」のだとか。

 久松松平家は家康の異父弟の家系で、江戸期は松平姓を与えられていました。維新後は明治天皇の命で姓を久松に復しています。現存十二天守のうち、葵の紋の入った瓦が使われているのは松山城だけとのこと。一方で本壇の櫓の一つには久松家の祖先とされる菅原道真公を祀った天神社があり、久松家で使われてきた梅の紋が入っています。

 司馬遼太郎「坂の上の雲」の主人公である秋山兄弟と正岡子規はいずれも松山藩士の出身で、劇中の旧主家は久松の名字で登場します。最初に松平と聞いてピンとこなかったのはそのせいかもしれません。

 山を降りて二の丸を仰ぎます。ふだんは二の丸が城主の住まいとして使われていて、ここも比高10mの高石垣と複雑な虎口に囲まれた厳重な作り。正直、本丸よりも二の丸を見て「ここまでするか」と思いました。

 国内に名城と呼ばれる城は多々あれど、十指に入る一つといってよい城だと思います。

posted by ふくだ at 23:49| Comment(0) | お城
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