2016年01月30日

明月記を世界に紹介した謎のアマチュア天文家「射場保昭」展 その1

 明石市立天文科学館で開催中の特別展「明月記を世界に紹介した謎のアマチュア天文家『射場保昭』展 」を見てきました。この日は星の友の会向けの天体観望会でしたが、あいにくの悪天候。集まったメンバー向けに井上学芸係長が特別展のギャラリートークをしてくださいました。

 まず『明月記』ですが、これは平安末期から鎌倉初頭にかけて活躍した歌人、藤原定家(1162-1241)の日記です。日本史の教科書では『新古今和歌集』の選者として登場、また世間に広まった『小倉百人一首』の選者でもあります。
# 歴史上の人物と並べると、源頼朝(1147-1199)より少し下、北条義時(1163-1224)と同時代人。百人一首に収められている定家の歌は「来ぬ人を まつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」。この「まつほの浦」は明石海峡対岸の淡路島の松帆の浦です。

 この『明月記』の中に「客星」の記述があります。客星は中国由来の天文用語で、これまで星がなかった場所に突如として輝き出す星のこと。現在の天文学では新星・超新星・彗星に分類されるものを同じくくりで扱っていました。
 『明月記』の「寛喜二年冬記」の中に、定家が陰陽寮に過去の客星の出現例を尋ね、その返事がそのまま綴られている箇所があります。皇極天皇から高倉院まで8つの客星出現例が掲載されていて、うち3つが超新星爆発に比定されています。
 有史以来、記録に残る銀河系内の超新星は7つしかないので、うち3件の記載がある『明月記』は天文学的にも貴重な文献資料です。特に有名なのが1054年の超新星で、おうし座の「かに星雲」はこの時の超新星爆発の残骸であることが知られています。

 日記に記載があることから藤原定家自身が超新星を観察したように思われがちなのですが(私も数年前までそう思い込んでいました)、1054年といえば平安時代の真っ只中で、定家の生年より100年以上前。都は藤原道長の息子、藤原頼道の時代。東北では前九年の役の真っ最中。客星を実際に観測したのは安倍晴明の孫の安倍時親と推定されています。

 陰陽寮にはこうした観測記録が積み上げられていたはずですが、後に失われてしまい、『明月記』に引用された部分がたまたま後世に伝えられたことになります。

 定家は歌人として文学史上の巨人となったため、日記の『明月記』は和歌ほどには注目されないまま、子孫の冷泉家に伝えられます。
 現在残る原本は巻物の形で、国宝に指定されています。

 写真は冷泉家時雨亭文庫蔵、京都大学総合博物館作成の『明月記』レプリカ。定家自筆の日記の間に陰陽寮からの返信が挟み込まれています。返信部の客星出現例は端正な筆致で私でも部分的に読めるのですが、前後の定家の自筆の部分は非常にクセのある字で、何が書いてあるのかほぼ分かりません。

 射場保昭にたどり着く前に長くなってしまったので、ひとまずここまで。
posted by ふくだ at 23:45| Comment(0) | 明石市立天文科学館
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