2020年07月02日

レーザープリンタ導入

20200702printer.jpg 工作趣味の都合でレーザープリンタがあるといいなと思っていたのですが、カラーレーザーでもエントリークラスなら3万円前後から入手できることを知り、思い切ってお迎えしてしまいました。
 ランニングコストはインクジェットより高いのですけど、私の場合インクジェットでも規定の枚数を刷る前にインクを乾燥させてしまうので、たぶん、きっと、極端な差はないはず。

 インクジェットは細やかな色再現に適しているのですが、耐候性が弱く、細かい文字や線の印刷が苦手。
 ペーパークラフトを作る時に、木工用ボンドがはみ出して滲んでしまうとか(これはそんなにない)、完成した作品を飾っていたら片側だけ退色してしまったとか(これはよくある)、プラモデルの水転写デカールを作るのに手間がかかる上にきれいに作るのが難しいとか(水性のインクを水に漬ける時点で無茶)、普通の人が年賀状を刷るには全く想定外のところでいろいろ弱点があります。

 レーザープリンタは精細な印刷ができるのと、比較的耐候性がよく、水にも強い。つまりはペーパークラフト型紙の印刷や、自作の水転写デカールの製作に向いている。その代わり写真などの微妙な階調を表現するのは苦手ですが、私はもともと写真をほとんど刷らないし、必要なら写真店に頼めば済む。

 コンビニのコピー機もレーザープリンタですが、手差しで工作用の紙を突っ込むわけにいかないのが難点。はがき印刷に対応した機械もありますが、想定外の紙を入れて紙詰まりでも起こしたら、トラブル時に対応するのは店員さんなので余計な手間はかけたくないと思うのです。
 キンコーズなどの出力サービスを利用するのが無難ですが、そのために三宮まで出るのが大変。

 というわけで、お迎えしましたレーザープリンタ。これで工作がはかどります。
 というよりいつでも工作に取りかかれる環境を手に入れた安心感が強い。

 その気になれば大量印刷も出来るので(むしろそちらが本領)、コピー本の薄い本くらいは作れるかも。それはともかく観測用の星図とか夜露に濡れても大丈夫に刷れるのは助かります。

 いろいろ落ち着いたら、久しぶりに宇宙機もつくってみますかねぇ。
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パソコンのメモリ増強

 自宅のパソコン、メモリを8GB→16GBに増強しました。
 2016年に購入したもので、4年半になります。

 内蔵HDDは2018年にSSDに換装済みで、しばらく快適に使えていたのですが、最近になってメモリの使用量が8割前後に達することが多くなりました。Firefoxが平気で1GBを超えてくるメモリ食いなのですが、それ以外でもなんやかんやと食いつぶしているみたい。

 いよいよ8GBでは足りなくなったようで、いっそ32GBくらい積むかと思ったのですが、調べてみたらマザーボードが16GBまでしか対応していません。ということで上限の16GBまで増強です。これでまだしばらく戦える。
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2020年06月29日

500系ハローキティ新幹線

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 新幹線で一番好きな車両といえば500系です。
 現在は山陽新幹線区間で「こだま」のみの運用となっていますが、デビュー当時は日本最速、いや世界最速の300km/hで駆け抜ける未来の新幹線でした。

 先行量産車は引退して京都鉄道博物館に展示されていますが、残る8編成は8両編成に短縮され、2020年現在も健在です。うち1編成が2018年6月末より特別編成「ハローキティ新幹線」として運行されています。何を考えてるんだJR西日本。

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 と思っていたのですが、いざ実車が仕上がってみると、ピンク基調のカワイイ路線のラッピングなのに、500系のスタイルが全く損なわれていないどころか、これはこれでカッコいい。キティなのに……キティちゃんなのにカッコいい。まさかサンリオのキャラクターにカッコよさを感じる日が来ようとは。くそうっ、何だかよくわからないけどすごい。

 ということで、成人男子ながら乗ってみたいと思ったのです。ハローキティ新幹線。
 でも調べてみたら、下りが新大阪11:32発→博多16:11着、上りが博多06:32発→新大阪11:12着という微妙な時間帯。関西から九州へ行くのに使うには着いたその日は寝るだけになりますし、上りだと西明石から新大阪までわざわざ乗りに行かねばならず、電車好きとはいえ、用もないのに新幹線に乗るほどの道楽者でもありません。

20200629_t500_06.jpg そのまま忘れていたのですが、今回の九州行きの帰りに使えるかもと思い出しました。
 日曜いっぱい九州に滞在して、ゆっくり泊まって、月曜の朝一で博多を発つ。これなら上りで乗れる。よし。

 ということで、6月29日朝06:27博多駅。やってきましたハローキティ新幹線。
 朝っぱらから何をやってるんだと思いますが、冷静になったら負けです。

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 博多よりの1号車は座席が取り払われてイベントスペースになっています。本来は物販コーナーや沿線の観光案内コーナーがあるのですが、昨今の事情でお休み中。おかげで報道公開のような写真が撮れました。

20200629_t500_12.jpg 窓に向かって外の景色を楽しむ座席もあります。小さな椅子なので親子連れの休憩コーナーといった雰囲気。

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 2号車自由席が「KAWAII! ROOM」としてキティちゃんを基調とした内装になっています。座席もこんなんですが、一般客が座っても大丈夫な範囲の意匠だと思います。

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 2号車の博多側は荷物置き場とフォトスポットになっています。こちらはカワイイ系全開。

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2020年06月28日

吉野ヶ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町・神埼市)

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 吉野ヶ里遺跡は弥生時代の初頭から古墳時代まで、数百年に渡る人々の営みが刻まれています。
 工業団地の開発計画に伴い、1986年より本格的な発掘調査が始まるのですが、大規模な環濠集落や物見櫓、楼観の跡が検出され、「魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の集落のよう」と大きな話題になりました。
 その後、遺跡は国の特別史跡に指定され、一帯は国と佐賀県によって吉野ヶ里歴史公園として整備・公開されています。復元建物は遺跡がもっとも栄えたとされる弥生時代後半を基準にして建てられています。

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 吉野ヶ里遺跡南内郭。吉野ヶ里遺跡は集落全体を南北1km・東西0.6kmの大きな環濠が囲んでいます。その中に、さらに130m×70mの区域を環濠で囲んでいるのが南内郭。弥生時代の後半に作られた区画で、吉野ヶ里を治める上層部の人たちの住んだ区域と推定されています。

 発掘調査当時の新聞に「邪馬台国が見えた」という見出しが躍ったと何かで読んだ記憶がありますが、気持ちは分かります。この規模の環濠はちょっとすごい。

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 吉野ヶ里遺跡北内郭。
 南内郭から200mほど北東にあり、二重の環濠に食い違いの出入口、張り出し部に設けられた物見櫓と、厳重な区画になっています。弥生時代の終末期に築かれた区画。
 祭祀などが行われていたと推定される場所で、竪穴式の建物は一つしかなく、何より特筆すべきは超大型の掘立柱建物があることです。このため上層者の住まいだった南内郭と性格が異なり、北内郭は祭祀や政を行う特別な空間だったとが推定されています。

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久留米城(福岡県久留米市)

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 久留米城は有馬氏21万石の居城です。
 有馬氏はもともと有馬温泉のある摂津国有馬郡の出で、羽柴秀吉の中国攻めに際してこれに味方し、秀吉死後は徳川家康に付いて戦国の世を生き抜きました。有馬郡の摂津三田2万石から丹波福知山8万石に転じ、更に大坂の陣の功で筑後久留米21万石の国持大名となります。

 近世城郭としての久留米城は小早川秀包(毛利元就の九男で小早川隆景の養子)によって築かれましたが、有馬氏入府に際して大改築が行われ、天守はないものの本丸には三層櫓が7棟立ち並ぶそうそうたる城郭となりました。

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 久留米城の二の丸・三の丸は現在はブリヂストンの工場となっています。二の丸は藩主の御殿、三の丸は家老屋敷や蔵屋敷がありました。

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 本丸の石垣は良好に残っています。
 石垣の折れ曲がりは縄張りのハイライトですが、久留米城の周囲は石垣の凹んだ空間が駐車場に使われています。そんなところに車を置いたら城内から十字砲火の集中攻撃ですよ。

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甘木鉄道

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 鹿児島本線の基山駅から、朝倉市の甘木駅を結ぶ甘木鉄道甘木線。
 かつては国鉄甘木線で、国鉄末期に第三セクターに転換されました。

 基山駅の甘木線のホームは無人駅で、「レールバス乗りば」の看板があります。バスみたいな車両が来るのかと思っていたら、ふつうの気動車が来ました。

 路盤はしっかりしていて、軽便鉄道上がりのような頼りない雰囲気はありません。それもそのはず、もともと旧陸軍の太刀洗飛行場への連絡線として敷設されたものです。
 現在も朝夕は15分ごと、日中でも約40分ごとの頻度で運行されていて、第三セクター転換のローカル線としてはかなりの高頻度です。途中の小郡駅で多くの昇降があり、地図を見たら西鉄大牟田線の接続駅になっています。周辺地域の住民をつなぐ役割をうまく果たしているのでしょう。

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 大刀洗平和記念館へ行く前に時間があったので終点の甘木駅まで行ってみました。
 周辺の市街地を散歩してみましたが、駅があるのは街の隅のようで、田畑の中に住宅地と商業地が混在したところでした。
 駅に戻って改めて見渡すと、駅前には大きなロータリーがあり、かつて国鉄駅だった時代の風格を漂わせています。駅には車庫があり、他の気動車も停泊していました。どうやらレトロ風の色合いに塗られているようで、ちょっと懐かしいような雰囲気です。
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筑前町立大刀洗平和記念館

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 日本では第二次大戦中の飛行機を展示している施設が少なく、また展示機も多くありません。
 戦後は軍事を扱うこと自体を避ける風潮がありましたが、当時の日本の技術開発や工業生産の水準を知り、同時代の他国と比較してどのような位置にあったかを知ることも、先の戦争を理解する上で必要なことだと思います。

 大刀洗平和記念館には第二次大戦当時の戦闘機が2機展示してあります。
 一つは旧陸軍の九七式戦闘機、もう一つは旧海軍の零式艦上戦闘機三二型です。いずれも現存機が世界中に一機しかない貴重な機体です。
 
20200628tachiarai02.jpg 今は田畑が広がっていますが、かつてはこの一帯には大刀洗陸軍飛行場があり、航空廠や飛行学校がある陸軍航空の一大拠点でした。
 海軍の飛行機は零戦が様々な媒体で描かれ、軍事に詳しくなくても多少のことは耳に入ってくるのですが、陸軍航空は余り知らないのが正直なところ。例えば特攻隊の出撃地として知られる知覧も、海軍ではなく陸軍の基地だったことは今回はじめて知りました。そして知覧は大刀洗の飛行学校の分校として作られたことも。

 大刀洗も戦争末期は特攻隊の出撃地となり、そして米軍の空襲によって壊滅しました。広大な敷地は田畑や工場となり、かつての軍都の面影はありません。

20200628tachiarai03.jpg 展示で唯一撮影が許可されているのが零戦三二型です。
 零戦は海軍の戦闘機ですが、この三二型は海外で発見され、日本に里帰りし、民間団体の所有を経て大刀洗の記念館へ落ち着いたという経緯があり、少々別枠扱い。知名度は高い機体なのでこの記念館の顔の一つになっています。

 もう一機の実機展示の九七式戦闘機は陸軍の戦闘機で博多湾から引き上げられたもの。
 零戦より一世代前の飛行機ですが、太平洋戦争の初期まで主力として活躍し、末期は特攻機に転用されました。大刀洗の機体も特攻機として出撃しながら、故障で不時着、水没したものと推定されています。
 正式採用は零戦と3年しか差がないのですが、ジュラルミンの外板の加工や増槽の成形など、それ以上に年代の開きがあるように感じます。飛行機の技術革新がいかに目まぐるしい時代だったかを伺えます。

 搭載しているエンジンも、九七戦は600馬力級、零戦は1100馬力級でほとんど倍。これが大戦末期になると2000馬力級が普通になります。その時期まで九七戦や零戦を使わざるを得ないのが当時の日本でした。

 資料館の展示は太刀洗が空の軍都として発展する歴史、震電を作った九州飛行機のコーナーから、太刀洗空襲、そして太刀洗の航空学校から巣立った特攻兵へと続きます。収集された遺品や展示されている遺書を読むのは正直つらい。先の九七戦の搭乗員も、別の機体で再度出撃し、帰らぬ人となっています。

 大刀洗平和記念館は郷土資料館的な位置づけもあり、1945年3月の大刀洗空襲にも大きなボリュームを割いています。飛行場や軍需工場が標的でしたが、民間にも大きな被害を出しています。

 2020年は第二次大戦終戦から75年。戦争を伝え、知ることも、戦争を起こさぬための不断の努力です。
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2020年06月27日

松露饅頭のこと

 唐津の町中を歩いていて「松露饅頭」の看板を見かけました。
 松露饅頭……なんかどこかで聞いたことあるなぁ。なんだったっけ。

 ピンポン玉より一回り小さなサイズの、薄茶色の丸いまんじゅう。皮は薄く、中には甘さ控えめのこし餡が詰まった上品な味です。お土産にしようかと思ったのですが、日持ちはしないということなので、自分用にいちばん小さな6つ入りの包装を購入。
 本当はお茶と合わせるのがよいのでしょうが、ホテルで本を読みながら、コーヒー片手にうっかり平らげてしまいました。写真がないのはそういうことです。

 何かの本で読んだに違いないので、思い浮かんだのが宮脇俊三と司馬遼太郎。

 宮脇俊三は『時刻表2万キロ』に唐津線を乗りに行く話が掲載されています。以前に唐津を訪問した時、海産物に負けて途中下車して、唐津-西唐津の一区間だけ残してしまったのを、推理小説ばりに時刻表を駆使して乗り潰す話。私も福岡から唐津までは鉄道で来たので面白おかしく読んだのですが、松露饅頭は出てきません。

 続いて司馬遼太郎『街道をゆく 肥前の諸街道』。こちらは博多から平戸まで史跡巡りの旅で、元寇防塁を回り、名護屋城のそばを通り抜け、虹の松原から唐津城下へ入ります。何だか似たような場所を回っていますが、こちらに松露饅頭が出てきました。案内の方が唐津の銘菓ということで、閉店時間の間際に唐津に到着してお店に駆け込むエピソードが紹介されています。

 それにしても、宮脇俊三は1975年、司馬遼太郎は1976年か77年の旅で、1990年代に読んだ頃はさほどに昔の話とも思わなかったのですが、今となってはまもなく半世紀というほどの時間が経ち、文章から思いうかぶ景色と、実際に見てきた風景の差異に戸惑いすら感じます。

 元寇防塁は発掘調査が進みつつある段階で、名護屋城址はおそらく本格的な整備が始まる前。しかしながら名所旧跡よりも、移動の最中のちょっとした景色や人々の描写にこそ、時の流れがにじみ出てきます。

 食べれば消えてしまうお菓子が、今も変わらぬものなのが、何だか不思議な気がするのです。
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辰野金吾と曽禰達蔵と唐津

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 唐津の地図を眺めて見つけたのが旧唐津銀行。
 瀟洒な洋風建築で、唐津城ともカーシェアの駐車場とも近かったので寄ってみることにしました。というか、歩いていたら見えたんですけどね。

20200627karatsuginko02.jpg びっくりしたのは建築家の辰野金吾、唐津の出身だったのですね。
 赤レンガの東京駅舎、日銀本店、大阪の中之島公会堂、神戸の第一銀行神戸支店(みなと元町駅外壁)などそうそうたる建物を設計した人です。あまりに頑丈な建物になるので「辰野堅固」と呼ばれたとか。変わったところでは南海本線の浜寺公園駅駅舎、武雄温泉楼門といった木造や竜宮造りの建物も手掛けていて、これは当時の日本では建築家という職業が確立していく段階だったので、出来る仕事は何でも受けていたのだそう。

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 こちらも通りすがりに見つけた石碑。
 郷土の偉い人が住んでいたんだな、へぇ。くらいの気持ちで案内文を読み始めてびっくり。
 「日本郵船神戸ビルの設計者、この人なのかー! この人も唐津なのかー!」

 日本郵船神戸ビルは旧居留地の西隣にある神戸でも指折りの洋風建築。神戸の港町の景観には欠かせない建物です。
 「この人」の名前は曽禰達蔵。辰野金吾と同期で工部大学校(現在の東大工学部の前身)を卒業しています。
 辰野金吾は唐津の家中でも家格の低い家でしたが、曽禰達蔵は上級藩士で若殿の小姓を務めていました。この若殿というのが幕府老中の小笠原長行で、曽禰達蔵も戊辰戦争で長行に従い長岡あたりまで従軍していたそうです。

 唐津は譜代大名の家で、隣の佐賀が薩長土肥の中核に食い込んだのに比べると、明治維新には乗り遅れます。こうなると政界で偉くなるのは難しいので、技術で身を立てるのが若者の立身の道でした。
 世が世なら曽禰と辰野が机を同じくして学ぶことはありえないのですが、かつての身分差を超え、才あるものに道が開けたのが明治時代の明るさなのでしょう。

 辰野は大学で後進を育てながら、曽禰は三菱に移って民間で、日本の建築界の基礎を築いていくことになります。

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 唐津銀行は金融機関の常として合併統合を重ねまくり、現在の佐賀銀行の前身の一つになっています。辰野金吾が建てた旧社屋は現在もほぼ当時の姿で保存され、「旧唐津銀行・辰野金吾記念館」として公開されています。中はいきなり吹き抜けで、ずらりと並ぶ瀟洒なカウンター。規模は違うのですが、元銀行の建物を転用した神戸市立博物館に通じる雰囲気があります。

 入り口に辰野金吾と曽禰達蔵の胸像が並んでいるのは、全国的な知名度では圧倒的に辰野のほうが上ながらも、郷土の偉人としては両者ともに日本の建築史に名を刻んだ存在として並び立つ存在なのでしょう。

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 1階は銀行の姿を伝える展示をしているのですが(写真は撮っていなかったのですが、分厚い壁の金庫もあります)、2階は記念館らしく業績を紹介する展示になっていて、その中に辰野が手掛けた建物の1/100の模型がたくさん並んでいます。解説を見ると地元の唐津工業高校の建築家の生徒がつくったものとのこと。どの模型も見事な出来栄えで、こういう取り組みは素晴らしいと思います。私も混ぜてほしい。世間の平均よりは器用です、きっと。

 1階には案内のスタッフの方々が常駐されているようで、お声がけいただいて説明をお聞きしたのですが、辰野も曽禰も神戸に手掛けた建物があるということで、大いに話が盛り上がりました。
 私も飛び込みで伺ったのですが、「ここにくる方はほとんどが事前には知らなくて、ふらっと寄ったという方ばかりなんですよ」とのこと。

 とはいえ旅先で思いもよらぬ人々の足跡と巡り合うのは、本当に楽しいものです。
 素敵な出会いでした。
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唐津城(佐賀県唐津市)

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 唐津城は関ヶ原の戦いののち、1602〜08年にかけて寺沢広高によって築かれました。海に突き出した半島突端の丘を城郭化した堅固な造りです。
 唐津の地名が記録に出てくるのは室町以降で、この一帯はもともと「松浦」と呼ばれていました。松浦郡となるとかなり広域な地名ですが、唐津は松浦川の河口にあるので、有力な中心地の一つだったのでしょう。元は魏志倭人伝の「末羅国」までさかのぼる由緒ある地名で、中世には松浦党と呼ばれる武士団が活躍しました。

20200627karatsujo04.jpg 現在の天守は戦後に建てた模擬天守で、もともと唐津城には天守がなかったとされています。少なくとも1640年代の正保城絵図には天守が描かれていないのと(天守台すら描かれていないのですが、単に省略したのかもしれません)、今のところ天守の存在を窺わせるような資料も残っていません。
 模擬天守は肥前名護屋城図屏風の名護屋城天守を模したそうで、周囲の景観にはすっかり溶け込んで、遠目には違和感がありません。

 名護屋城は唐津領内にあり、唐津城から見て北東15kmになります。名護屋城は朝鮮渡海の拠点としては優れた立地ですが、唐津領の治所としては北に偏りすぎ、また天下人の城を一家臣が使用するのは恐れ多いという意識もあったかもしれません。名護屋城には城番が置かれていたそうです。

 名護屋城の資材を唐津城に転用したという逸話もあるのですが、石垣については名護屋城は玄武岩、唐津城は花崗岩が主体なので、これはなさそう。ただ解体した建物の木材や瓦を転用した可能性はありそうです。
 なお発掘調査では寺沢広高の築城以前にさかのぼる可能性のある石垣や名護屋城と同じ様式の金箔瓦が検出されていて、名護屋城への中継拠点となる城が築かれていた可能性も指摘されています。

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 唐津城の三の丸には市役所が置かれ、周囲も市街化しています。市役所前には石垣と堀が残り、単層の隅櫓が復元されています。また堀も兼ねていた町田川沿いにも三の丸辰巳櫓が復元されています。

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 二の丸も市街化していますが、堀と石垣は残っています。
 二の丸と本丸はさほど高くない石垣で区切られ、本丸側には御殿が建っていました。現在は早稲田佐賀中学校・高等学校の敷地になっています。

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